心と精神と魂について・・・Ver7

mytecs2007-07-01

 
( ※ ひとつのテーマについてバージョンアップ形式で書き上げて行きます。)

心と精神と魂について論じられることがありますが、意外と私自身わかっていないのにあまりその違いを考えたことがありません。

これは、一般の人に対して質問しても答えを得ることは難しいようです。たとえば、「精神論」とか精神主義という言葉はあっても「心論」とか、「心主義」とは言いませんし、聞いたことがありません。しかし、「汎心論」といったように頭が付けばそうした用語は存在しているようです。

では、「魂論」とか「魂主義」はどうでしょうか?これは、「心」と同じのようですね。
(Googleでの検索で一応確認をして見ました。)

そうしますと、「心」と「魂」は同義語なのか?そして「精神」とは何を指すのか?
といったことを考えてみたいですね。

昭和天皇が「それが私の心だ・・・」と言われたのはかなり有名な話ですね。これを「それが私の魂だ・・・」と置き換えますとかなりニュアンスが変わってきます。私が感じるニュアンスは、前者の場合、天皇の気持ちといった理解の仕方ですが、後者は気持ちというよりも気力が入った感じがします。すると心に気合が入ったものが「魂」なのでしょうか? では次に「それが私の精神だ・・・」といった場合は、知的理念が入った感じがします。

小林秀雄さんは、大学生を相手に講演されたとき、確か精神は記憶であると言われていましたが、その意味は肉体に対しての言い方、すなわち「脳」も肉体の一部ですが、精神は魂や心と同じで非物質であるわけです。その非物質である「心」と「魂」と「精神」をそれぞれいろんな場面で使い分けをしているのですね。

では、これらはそれぞれ別々な非物質でしょうか?

大和心と大和魂といった言葉を考えたとき、まず「大和魂」は、私には戦前、戦中からの軍国主義を思わせるところがあります。しかし、この大和心も大和魂も実は女性的なセンスの意味合いを持つようです。詳しくは平安時代からの言葉の流れを学ばないと本質はつかめないようです。

心も魂も小林秀雄の云うベルグソンが書いた『物質と記憶』を読めば、どこまでも物質と非物質は並行していないと結論付けています。けっして心や魂は物質からの反映ではないと言い切っています。科学者からしてみれば、脳細胞にある記憶から反映されたものが心や魂であると考えるのが常套ですが、どうもそうではないということらしいです。小林秀雄は、『反映』という言葉そのものが曖昧であると言い切っています。

ここで整理してみますと、心も魂も状況による言葉の使い分けはありますが、この非物質は同義語として考えてよいのではないでしょうか?もう一度言葉を考えて見ますと、体力に対して精神力といった場合、心力という言葉はどうやら辞書にありますが魂力はどうもないようです。ですから、精神と心はやはり体とは密接な関係があるようです。そして人が『魂』と言ったときは、どうも体から離脱できる、すなわち物質にはまったく囚われない存在と言った方が腑に落ちそうです。

ノーベル文学賞作家の大江健三郎の講演テープをよく聴いていると、精神と心と魂の使い分けがあいまいな事に気付き笑ってしまいますが、やはり小林秀雄や、池田晶子にしても、『魂』という言葉を追求するのは難解と認めていますので『魂』は鬼門のような言葉です。言葉は、事象のすべての代名詞ですから、やはり『意味』としての定義付けは、そうやすやすと出来るものではないということでしょうか?

一番問題になるのは存在で、肉体と精神や心、魂はかならずしも同一人間において並行していない存在であり、かつ別物としての存在であるということが本当ならば、心や魂が肉体(脳)とは違ったところにあるといわなければなりません。そうなるとどこに存在しているのか?といった問いが出てきます。

小林秀雄は、存在と云うと人はすぐに空間的な場所を考えるが、心や魂の存在にはそうした考えは不適切であるといっています。ある名ピアニストが、「曲を弾くときは脳が覚えているのではなく、指が覚えてくれているのだ!」といったようなことを聞いたことがあります。それはある意味で、覚えてくれているのは場所ではないということを示しているようです。この考えは非常に面白いと思いませんか?

私も直感的にそうだなと思いました。それはシューベルトソナタ18番を聞いたときに、心も魂も異次元の世界にあるという感覚に見舞われた経験があります。

私は、サイエンスが大好きで今日まで来ていますが、確かにサイエンスはすべて分析であり、方法論であり、実証主義でもあります。そして常にその対象は物質の仕組みやその運動法則を解き明かすことでした。そして今日の科学技術の成果が人工物質生成への応用なのです。

しかし、そのサイエンスには限界があります。物質の存在理由や物質が最終何であるかは解き得ません。またサイエンスでは心や魂についても解き明かすことは不可能です。それは、計算はおろか機械で計測すらできないからでしょう。計測できない限り、科学では実証は出来ないのです。

ここにサイエンスの限界があるのですが、人の哲学はいつの時代も執拗にこれを追求しています。自然が生み出した人間に何故、心や魂が存在するのか?これは大きな謎でしょう。しかし、自然が生み出した生命は人だけに限りません。

身近では、犬や猫もそうです。彼らにも、心も魂もあるかと思います。但し、人とのその違いはありますが、複雑ではなく立派なものを持っています。そして鳥もそうでしょう。

最近、お金欲しさにわが子に多額の保険金を掛けて平気で殺してしまう親がいますが、この心は畜生以下です。ですから心や魂は決して人間だけのものではなく、生物全体に存在するものでしょう。すると、すべての自然に魂が宿るということになりますと、これはアニミズム的な世界があるということになります。

以前新聞で、虫の心を研究している記事がありました。学術的に虫にも心があるとの見解で研究が熱心に行われているのには、流石の私も驚きでした。昔から「一寸の虫にも五分の魂」といわれていますが本当なのかもしれません。

そうしてみると、昔の人は本当に考えの深い人がいたのですね。ところでそうした虫や動物、そして人の心と魂は一体どこに存在しているのでしょうか?ここで空間的存在を考えてはいけないようですから、私の想像を巡らせますと死後に遊離した心と魂は異次元の世界で、実はその非物質が物質の元となって再構築されているのかもしれません。

連鎖的に考えますと、石にも心や魂があるような気もしてきますね。結論から云うとこの宇宙に存在するすべての物質は非物質から生成されているということです。しかし、物質と非物質は並行していないのですからどうして非物質から物質に変換できるのか?といった疑問も出てきます。


※ 補足しますが、物資が非物質でできているという考えは、物質をとことん分解して行きますと・・・分子、原子、電子、陽子、中性子、中間子、素粒子といった究極の素子を科学は追及していきますが、その究極に行き着かないのが現状です。そもそも究極の物質なんてあるのか?先程の素粒子レベルでも、実際直接的に人間の目では見えない物質なのです。一般的に目に見えるものが物質なのであって、目に見えないものが心とか精神だとか魂だとかいっているわけで、物質を追求すると、人間の目には見えない世界でできていることに気付きます。


しかし、科学的には間接的にそれらを定量的、定性的に物質の素であることを次々に発見して行っていますが、直覚を働かせますと、どうも非物質が物質を構成している気がしてならないのです。それは、すべての物質には心があると。汎心論的考えが昔からありましたが、『心』や『魂』は非物質ではありますが、それが物質に宿っているという考えは、とりもなおさず、究極の物質素子は非物質である『心』や『魂』のようなもので形成されていると思っても不思議でないと思います。そうすれば、アニミズムのようなものに対しても理解が得られます。


これはあくまで私のロマン的な想像ですから・・・念のため。


そしてこのことを書くにつれ、なんだか物質と心や魂はどうもやっぱり次元の違いがあるみたいな気になってきました。精神と物質が並行していないと仮定したとき、人はその心と魂の行方を探し求めるものですから・・・わからなくなるのでしょう。小学生の頃・・・星をじっと見ていると一体自分が何者であるのかがわからなくなったことがあります。それは心と魂が自由に宇宙を見渡した所為でしょう。それは或る意味で物質と非物質がともに存在する宇宙への回帰かもしれませんね。


そして最後にひとつわからない謎があります。
それは何故、自然によって出現された人間が自身の存在を自問するのでしょうか?言い換えますと自然が自然の存在を自問していることになりますね。

by 大藪光政