心について・・・ver4

mytecs2007-08-27

前回、心と精神と魂について述べましたが、やはり「精神」や「魂」という言葉よりも、「心」の方が圧倒的に書物でも、会話でも使われています。

それは、直覚な見立てですが、どうも「精神」というとなんだかシステム的なものが入っているみたいですし、「魂」といえば霊的なイメージが拭えません。だから「心」が圧倒的に多いのでしょう。共感している池田さんの著書も「心」の言葉が圧倒的に多いようです。


それで、心についてここで考えを進めてみようと思います。それで、たまたま偶然にも、岩波書店出版(2006年7月26日)で、哲学者の沢田允茂(さわだのぶしげ)さんの『九十歳の省察』を手にしましたが、この目次で最初の省察に「心」を取り上げておられます。哲学的断想とのサブタイトルも付いていましたので、「心」を最初に持ってこられたのは当然のことでしょう。

目次項目は、「心とは」について六つの省察が書かれています。それは、「二つの心-人間と動物の間」、「心と身体-心は社会の代表である」、「脳と心-身体と社会への責任者」、「『私』はどこに在るのか」、「広がる私」、「『分かれる』と『別れる』」の六つの省察で構成されています。


「二つの心-人間と動物の間」については哲学をやる人は皆、問いかける内容でデカルトでいう『われ思うゆえにわれあり』のことや、汎心論についてと問いかけもあります。

そして、人間が持つ『心』は言語を持つゆえ、他動物とは違った『心』を所有していると指摘しています。それは個人としての世界を維持するだけでなく、社会としての世界を持とうとしているところに大きな違いがあると言っています。すなわち、『人間は社会的動物』ということでしょう。

わずかな反論として、動物だって社会的な行動を取っていますが、例えば狼にしても、サルの群れにしても、それなりのコミュニケーションで共同生活を立派に営んでいます。ですから、人間だけが社会的動物だというのは、少し奢りかもしれません。

私論ですが、他の動物にも危険を知らせるとか、仲間を呼び寄せるとかいった信号的言語があるみたいですが、人間には会話言語と活字による言語を備えており『心の発育』では人間の心の方がダントツに広がっています。ただし、それを所有した人類が他の動物よりもすぐれているということとは別です。


沢田允茂さんは、「広がる私」のところで、「内的な私」と「外的な私」という二つの私を取り上げています。それは、作家を例に挙げますと、小説家の私生活を含めた内的心は、一般的に窺い知ることはできません。しかし、作品の中にあるものは作家の「広がった部分の最大」のものに違いないといっています。

そして作品はやがて作家から相対的に独立し、逆に作品が作家の「私」につけ加わり、作品は原則としてはそれらが書かれた時を超えて永久に世に残るという有利な特徴を持っている。といっております。

これは、なるほどと思われることが多々あります。たとえば、夏目漱石は日本ではあまりにも高名で、日本文学で、彼の社会的地位は、かなりのものです。そうしますと、つい漱石を神格化して偉人であったと多くの人は想像します。しかし、江藤淳さんのお話では、なんと!漱石は俗人と同じくけちな人間だったのです。

それは、朝日新聞社に入社して報酬が多くなり、新聞社の編集長でしたか?脱税の相談(合法的か?非合法的か?は不明ですが)を持ちかけたそうですが、一喝して叱咤されて漱石が平謝りした手紙が残っているそうです。漱石も人の子だったのです。

そうしてみますと、作品と漱石の私生活での二つの心はすでに、作品が出来上がってからは作品だけが一人歩きし、立派な文学として様々な読者との心の対話を通して新しい心の構築が始まるようです。


沢田さんは心について、最後の「分かれる」と「別れる」の違いについて述べられており、これは「分かれる」は主に、道が分かれる、枝が分かれるといったように物体が分かれることを指して使われる。ところが「別れる」の方は、友人と別れる、妻と別れるといったように、この場合はおもに人が別れることを指します。

それで、沢田さんがここで言いたかったことは、空間的に分かれるのではなく、見ただけではわからない「心が別れる」ことについて注目されています。そして、結びとして、身体は分かれても、心は別れないことは、人々の心をひとつに結びつけることであり、世界平和をつくりあげる土台となるに違いないと記しています。

このように、沢田さん書物からはヒューマニズムが働いています。しかし、心とは何か?の追求については、残念ながらどこかへいっています。 心は、脳という物質が活動することで、記憶や判断、そして連想、想像、空想と限りない展開をしてゆきます。

そして、自身の存在はもちろん、心の存在についても想いを馳せていきます。そして、手法(文筆活動、演説、会話、講演etc)で、他の人の心を動かしたり、融和させたり、侵蝕したりしていきます。

コンピュータでたとえますと、脳という物質はハードウェア的存在で、メモリーがあり、CPUがあり、コントローラがあってプログラムの指示を待っているわけですが、そのプログラムの動きは、生命体にとって最優先されるのが「生命の維持」でしょう。しかし、人間という動物は「自殺」ができる動物なのでやっかいなのです。


たまに、他の動物たとえばイルカや鯨の集団が集団自殺をしたといったニュースが流れますが、科学的には別な要因(寄生虫などによる脳障害)があるそうです。とくに個体として自殺をするのは人だけです。そこで、その要因は人間特有の心の働きがあるからだと考えられます。それは他の動物とは違った差異なのですが一体何なのでしょうか?

また、人は笑いますが、他の動物ではどうでしょうか?悲しい泣き声を発するのは、自分の犬からでも知っていますが、人間以外に笑う動物がいるのでしょうか?この答えは、霊長類は笑うとの見解があり、実際チンパンジーは人間と一緒で、生まれたときから笑うという表情をもっているようです。

すると、「自殺」のみが人間特有の心の働きのひとつということになります。自殺は、生命維持という大前提を真っ向から不定する行為です。生命を絶つという行為をさせる心とは、すでに己の身体を消去させるという意味からすると、物質としての脳とは対立した存在に心はなっています。

それは裏を返せば、心の錯乱かもしれません。すなわち「物質としての脳」を無視した心の一人歩きということでしょうか?

すると、人の心は「物質としての脳」を無視するような行為ができるところまで、進化してしまったということなのでしょうか?それは、社会的動物としてのかなり高度な展開をおこなう上で是非とも必要な進化だったのでしょうか?


物質としての脳を素地として様々な出来事をメモリーして、生命維持に必要な情報を瞬時に取り出す能力を人は勝ち得てきましたが、それ以上に生命維持以外の自由な思索も発達させてついには、内なる私から外への私として心は、時空を超えた移動を求めているのではないでしょうか?それは、人間の本能から来るものなのでしょうか?それとも、自然が求めた究極の姿なのでしょうか?


by 大藪光政