精神について Ver.2

mytecs2007-10-28

精神について考えてみると、まず「健全なる精神は、健全なる身体に宿る」と言うのをすぐに、思い浮かべます。これは、小学校の頃から学校の道徳教育で教わったものです。

しかし、これは昨今、どうも疑わしいと思わざるを得ません。健全なる身体とは、健全なる肉体のことですが、それはスポーツをすることで得られると教えられてきました。ですからスポーツマンは皆、健全なる精神が宿っていることになります。

しかし、社会の一面ニュースでは、ボクシング、相撲、野球、サッカー、ラグビー等のスポーツマンが、品格を問われるような問題を起こした不届きな精神を持った連中でごった返しています。

ところが一方、小説家の遠藤周作氏は生涯、闘病生活において不健康な体で、「沈黙」、「深い河」といった名作を残しています。彼の心はどこまでも純粋に「神」を探究しています。ですから、格言は鵜呑みにはできません。

さて、どうも「心」、「精神」、「魂」の区別がつきにくいですから、ここで広辞苑を拡げて見てみましょう。まず「心」には、(1)人間の精神作用のもとになるもの、またその作用。(2)知識、感情、意志の総体とあります。

それに対して「精神」は、(1)心、魂。(2)知性的、理性的な、能動的・目的意識的な心の働き。根気。気力。(3)物事の根本的な意義。理念。(4)形而上学において想定されている非物質的な実体。と幅広い解釈があるようです。

最後に、「魂」は、(1)動物の肉体に宿って心の働きをつかさどるもの。(2)精神、気力、思慮分別。(3)素質、天分。と説明されています。

こうして見ますと、やはり三つとも非常に曖昧な言葉であることにあらためて気付きます。
たとえば、「心」の説明が人間の精神作用のもとになるものとすれば、その「精神作用」の「精神」は「心」と置き換えられますから、「心」とは、「人間の心の作用のもとになるもの?」となってしまいます。可笑しいでしょう。

広辞苑の編集者は真面目に編集したのかしらん?それで、お遊びはそれくらいにして「精神」という言葉についてもっと考えて見ましょう。言葉は抽象的なものですから、具体的な活用を通してみた方がいいかもしれません。

たとえば、精神病とは言いますが、心病、魂病などとは普通言いませんね。しかし、心の病とか病んだ魂とは言うことがあります。でも、ニュアンス的にはそれぞれ随分違うものです。

精神病は、精神異常という言葉がすぐに連想されます。心の異常、これも言われますね。しかし、魂の異常は聞くことが少ないでしょう。

次に「普遍の精神」、「普遍の心」、「普遍の魂」・・・さてどちらがぴったりした感じがするでしょう。そして、「いやしい精神」、「いやしい心」、「いやしい魂」ではどうでしょうか?

続いて「悲しい精神」、「悲しい心」、「悲しい魂」では?反語として「うれしい精神」、「うれしい心」、「うれしい魂」ではどうでしょうか?こうして見ますと、「心」の場合は、パトス(感情)の言葉との合成がしっくりくるのがわかります。

さらに進めて、「知的な精神」、「知的な心」、「知的な魂」と書いた時、どうも「精神」には知的な目的意識を持った働きといった意味での活用が自然のような気がします。ですから、精神病は知的な目的意識を持った働きが破壊された時に起こる病気を指すのではないでしょうか?

現代人は、精神病というやっかいな病気を患う可能性があります。その原因は、ストレスからくるものが殆どでしょう。そして、ストレスは人によって様々です。

特に知的な仕事をされる方、或いは仕事でのプレッシャーを持っている方は要注意でしょう。仕事での行き詰まり、仕事での失敗・・・それに伴う責任の重さが重ければ重いほど危険です。

現代は、ニーチェの「神は死んだ」といった時代であることにも起因しているかもしれません。「神」の存在しない、閉塞感が人を孤独に落とし込むのです。

生きる上で、不可抗力の数々の現実に対してどのように自身の精神を誘導してあげればよいのか?それが問題なのでしょう。

「神」に頼らず、「自己精神」で、理不尽な事象に立ち向かうには、どうすればよいのか?それは、やはり「哲学」、すなわち「考える」しか道はないのでしょうか?この「考える」行為に必要な知性を磨くことが唯一の救いなのでしょうか?

「信ずる」から「考える」への変換によって、道は拓けるのでしょうか?

話がすっかりそれてしまいましたが、小林秀雄は精神とは記憶の総称といっています。つまり脳がタクトを振って現実に対して切実な記憶だけを呼び起こさせる。但し脳と精神は並行していない。そして実は人間の脳の中には経験した記憶がちゃんと残っている。失語症といった病気はそうした言葉を呼び起こす機能が失われると起きるのだという。これがベルグソンを読んだ小林の話です。

ここで人は、「今まで経験してきた記憶と言うものがちゃんと残っているといっても、思い出せないではないか?それが、あなたの云う切実な現実問題に直面した時にも!」と云われるでしょう。そこのところは、恐らく推測ですが潜在的記憶なので、その記憶をいちいち細かくは思い出せませんが、たとえば人に騙されかけたときに、直覚が働いて、もしやと思い、おかしいと判断するにいたることがあるはずです。潜在的記憶が要約されて閃くことが、おそらく直覚というものでしょう。人間の脳は莫大な記憶を要約して行動判断の重要なヒントを導き出す能力を有しているのです。それも日頃の研鑽がなければ駄目でしょうけど。

精神と云う言葉の意味を考える時、こうして物質としての脳そのものと、こころと魂までもが絡んできて、やはり混沌としてきます。しかし、直覚で判断しますと、精神は人間の考える活動の狭義の意味として捉えられると思うのです。そして精神活動にパトスが入り混じったのがこころなのでしょう。

しかし、パトスはどうして生成されるのか?と問われると困ってしまいますね。パトスが生まれつきなのか?それとも後天的なのか?といった議論も出てきますから。そしておまけに、では心の中での本能の立場はどうなるの?と言われるともっと困ります。本能は生まれ持った心に作用させる力がありますからね。

本能はある意味で、動物としての遺伝子によるプログラムではないかと思います。それはちょうどパソコンがOSで動くように最初から仕組まれているのに似ていますね。そして人類は学習することで知識を獲得し、精神を高めその精神作用と本能がうまく絡み合いパトスが育ってゆく・・・そんなプロセスみたいな気がします。ですから、精神や心にも、そのOSは密接な関係があると思います。そして育っていく心や魂は・・・ある意味で、アプリケーションソフトのようにひとつひとつの個としてこの世に存在することになるのでしょう。

そして、そのアプリケーションは、求められればいつでもよみがえることのできる不滅のものとして存在するのです。それは、使う人がいる限りです。言い換えれば、あなたがこころに想う人は、あなたの心にいつでも再現できるのです。それがその再現こそが魂というものでしょう。

随分、支離滅裂なところまで来ましたが、物質を分析するような科学的な扱いで、心や精神、そして魂などの言葉の意味を捉えようとしても意味がありません。そしてつかんでもすぐに、するりと逃げてしまい辻褄すら合わなくなります。でも考えずにはおられません。実に変な性分に生まれてきたものです。


by 大藪光政