魂について想うこと・・・Ver3


こころや精神についての章で、すでに相対的に魂についても述べてしまったのですが、魂という言葉だけは霊的な感じがする言葉だと思います。小林秀雄の話の中でも、精神や心、そして魂という用語が出てきますが、じっと聞いていますと、やはり柳田國男さんの民俗学に触れて感動し、学問と言うものは方法論や分析ばかりをやっていてはいけない、感性がないと駄目だと言っています。それは、言葉を通して本質を語るには、やはり詩人のような感性で言葉を選び用いなければ、真理は擦り寄ってこない。ということでしょうか?

その柳田國男さんの口述による本を、手にして読んだ時の話の中で、幼少の頃のおばあさんの話が出てきます。その内容をここでは書きませんが、死後のおばあさんの魂というものが、幼い國男の心の中に現れたという意味の話です。こうして見ますと、魂は不滅といったところのニュアンスが存在します。これは、今の我々誰もが、それを信じるか信じないかは別にして、『魂』という言葉に霊的な意味合いが入っているのは、皆の共通認識です。

霊的なものがあるとしますと、それは不滅なものですから大変人間にとって、とても興味深いものとして捉えることが出来ます。「物質界としての自然は常に変化する。決して固定はしない。在ると思った物は、いつしか無に帰する。それを人は無常という。しかし、厳密には『無』ではなく形や、性質が変わっただけである。でもこの世には無とならない変わらないものが在る。それは、人の目に映らないものである。例えば自然の法則、これはあり続ける。例として物理学の法則と、自然の掟としての法則などがあるようだ。」このように想いを巡らしたときに、人の目に見えないものが不滅であるということがわかります。

すると、『魂』は人の目で見ることは決して出来ませんから、不滅なものとして了解できます。それでまず、身近な『魂』である・・・人の魂について考えて見ます。 (自然界の有機物としての植物、動物、そして無機物としての石などにも、『魂』が存在すると云われる方もおられますから・・・それは、置いておきます。) 人の『魂』といったら、一番ポピューラなのが、幽霊の霊魂でしょう。しかし、こう科学が発達してきますと、そうした話が出たときに信憑性においてすぐに化けの皮がはがれること多々あります。お化けの”化けの皮”が剥がれるのだから・・・なんとも面白いものです。

現代の人々は、そうした霊魂は信じない傾向があります。そこでふと思うことを今から述べます。例えば自分に兄がいるとします。まだ死んではいないと仮定します。その仮定のもとで、兄が外国に行ったとします。すると今まで自分の近くに住んでいて、ちょくちょく会うことがあったのに、外国に行った事でもう会えないと云う事を仮定します。そして、音信不通になったとします。こうした時、この世に兄はどこかで生きているということになります。
でも、会うことはできません。ここでもし仮に、外国のどこかで途中で実際に死亡していても、まだどこかで生きていると思っているに違いありません。この現象をどう捉えたらよいのでしょう?人の死は、自分が見ることで確認することは出来ますが、見ることなくして認識は出来ないということではないでしょうか?他人からその死を知らされることで兄の死を確認することはできると人は言うでしょう。しかし、ただ知らされただけで納得できるでしょうか?ありとあらゆるその死の証拠を見せられて、仕方なく納得することはあるかもしれません。

つまり直接、目に見えない人の存在は常に心の中にあるからこそ、そうして存在が持続されているということに他なりません。それは、目に見えない存在の人が死んでいようと死んでなかろうと、その人の心の中に生きていると思うこと自体が、生きているということに他ならないからだと思います。

それは、客観的な思考ではなく、主観的な思考であると言われるかもしれませんが、個々としての人は決して客観にはなれないからです。自分から自分を離れて観察するということはありえないでしょう。

そういう観点から考えてみますと面白いです。人の心に現れる『登場人物』は、すべて『魂』だと仮定します。その人の生死に関わらず、それは常に存在していて想うこと自体が『魂』を呼び起こすことに繋がるということになりませんか?

そんな考えで行けば、仮に漱石の書物を読んだ時には漱石の『魂』がその読者の心に再現される・・・ということになります。プラトンの書物を読めば、ソクラテスの『魂』までもが現れる。孔子も、孟子も・・・と、何千年前の人物までもが、現れてくる。つまり『魂』は、脈々と生き続けているのだと。いや、『生きる』と云う言葉は不適切ですね。『存在』し続けている。といった方が正確ですね。

ところで、凡人の場合は・・・となりますと、すでに死亡した身近な人でも、その人との懐かしい頃を想い抱くことでその人の『魂』と触れ合うことがいつでもできます。つまり亡くなった方の『魂』は、その魂を想い抱く人が存在する限り存在するのでしょうが、その想いを抱く人がいなくなる事で、消滅するということになります。

こうした勝手な結論ですと、万人が認める不滅な仕事をした人は永久にそれを想う人が存在する限り、存在し続けるということになり、そうでない凡人の『魂』は、残念ながら忘れ去られた時点で自然消滅ということになります。

すると、『魂』は永久に存在するものとそうでないものとがあるということになりますが、もし、仮に人類が滅亡したら、その時点で、すべての魂は消滅するということですね。でも、それは、人類の魂に限っての話です。しかし、人類が滅亡しても、なお人間の魂が徘徊していると考えると・・・不気味な話になります。

こうした、人々が考える魂には、いつの時代でも人には魂があることを疑っていません。文学においても、例えば、徳冨蘆花の「不如帰」という小説のところで、こんな浪子の想いの一節があります。
「雨と散るしぶきを避けんともせず、浪子は一心に水の面をながめ入りぬ。かの水の下には死あり。死はあるいは自由なるべし。この病をいだいて世に苦しまんより、魂魄となりて良人に添うはまさらずや。良人は今黄海にあり。よしはるかなりとも、この水も黄海に通えるなり。さらば身はこの海の泡と消えて、魂は良人のそばに行かん。」
これをお読み頂ければ、日本人の誰もが胸を打つでしょう。そして、この浪子の想いにある、死んででも魂となって良人の傍に行きたい気持ちに対して、魂なんかあるものか!と否定される方は、恐らくいないと思います。それは、阿吽の呼吸で納得されるようなひとつの感性でしょう。

つまり、『魂』は主観的には存在しているといっても通ると思います。しかし、主観を離れたところで存在するか?といえば、それはもう物質でない徘徊している”魂”をどのようにして存在していると言えるでしょうか?

たとえば人間の思考の中から、「客観的には人の魂などというものは、存在しない。人は死ねばもう肉体が肉体で無くなり、自然に帰した物質に変化し、人の精神も魂などという根拠の無いものには成らず、ただ消失してしまうだけ、すべて無に帰してしまうのだ。」と、結論付けたら、なんと寂しいものでしよう。

それは、宇宙で唯一の存在としての自己が、刹那の時間しか、存在しないということになり、自己にとっては過去も、そして未来も一切、価値が無くなり、現在という時空間にいる今だけが自己にとってすべてとなります。そうしますと、次世代の為に貢献するというような価値観は独り相撲のような気がします。

死んでも、自己が魂として存在し続けるかもしれないということを前提とすれば、先ほどの価値観は意味があるのですが、如何でしょうか?つまり、その存在する魂に、己が行った行為に対して見届けられるという可能性があればこれはもう、頑張らなくっちゃ!ということになりませんか?

こうして考えて見ますと、過去、多くの賢人が人類の為に叡智を残していますが、それはやはり未来の人類に対してのメッセージだと思うし、賢人の魂が未来に渡って共存していると考えるべきではないでしょうか?

そして、人間のDNAには、何故か?”魂”というものを想定して創られているとしか、考えようがないような気がします。そうしたDNAに組み込まれる必然性は、恐らく人類存続の為のひとつの維持機能だと思うのですが、如何でしょうか?

それは、まともな人間は皆、”魂”というものをまったく考えない人間は存在しないと思うからです。

さて、昨今の出来事で、もうひとつ下記の問題を取り上げます。

{ あるバラエティー番組で東大の宇宙物理学でもっともノーベル賞に近い人という紹介で出演された教授に、どこのバラエティーにもよくレギュラーで出演している磯野貴理さんが、「先生、人間は死んだらどうなるのでしょう?」といった素朴な質問をされました。するとその教授は冷ややかに「死んだら無くなるだけです。身体も単なる物質として自然に帰ります。」 と、答えられました。すると面白いことに、「それでは先生、魂はどうなるのです?」と、畳み掛けました。

先生曰く、「精神や心は単なる脳の中での化学反応ですから、無くなります。」と、笑って答えました。質問者は、「えぇー」と言ったため息をしました。もし、これを小林秀雄が聞いたら怒るだろうなと私自身、興味津々でテレビを見ていました。

現代の科学者は、量子力学を体得し、分子生物学などにも深く理解を持っています。ですから、こうした回答があっても当然なのかもしれません。}

この記事は、「書物からの回帰」の{吉永良正の『パンセ』数学的思考を読む。}から、面倒なので引用しています。

ここで重要なのは、高名な物理学者が人の精神や心は、すべて化学物質の反応だから人が死ねば何も残らないと言い切っております。科学が好きで科学を理解できる人にとっては、別段異論は無いと思います。そこまで科学は、物質としての人を分子レベルまで追い詰めてきているのですから、森鴎外が科学の将来性を評価した予見はまさに的中です。

しかし、そうであれば人の精神や心は化学反応であるから極論ですが、たとえば人を殺しても、その殺意は化学反応であることから、裁判でその罪を裁く究極的なエレメントは被告の脳の化学物質となります。ややこしいことに、裁く方も裁判官の心証で裁いているわけですから、裁判官の脳で起きた化学反応で裁いていることになります。

これをどんな風に理解すればよいのだろう?心や精神が単なる化学反応と言い切っていいのだろうか?もし、単なる化学反応だけではなく、違った要素が隠されていると仮定すると、今度は人の心や精神が、それでも人の死と同時にまったく消えて、魂となって残ることはないと断定できるのだろうか?

もし、それでもそうだというのであれば、人は何故、己以外の人が死んだとき埋葬して死者を弔うのだろうか?それは言葉は悪いが、生きている者の単なる自己満足なのだろうか?また、恋愛感情も含めて色々な人の想いが化学反応であるのが事実ならば、人と人との関係は物質対物質の関係であるから物理的には、空間という隔たりがあるのに反応しあうということが起きているという事実を捉えると、情報伝達を返して化学反応が起きているということになる。

人と人との情報は、言語であり、映像であり、音響であり、触覚でもある。人は、情報を駆使して化学反応を高めようとしている。しかし、送信して飛び交った情報は、主観的世界の本人が死ねば、受信できないし、送信もできない。その飛び交った情報ストレージは、一体どうなるのか?本になり、レコードになるものもある。しかし、多くの人々が発した情報は消えてなくなる。そして、すべての発信元の魂は無くなるのか?そうなると、少し、不公平であるが歴史的に残された情報ストレージだけが『魂』モドキということになる。

by 大藪光政