生命体と心について Ver1

今日、現代人にとっての脅威は核兵器でなくウイルスになっている。それは日々のニュースでもご存知のように日常生活にまで深く影響を及ぼしている。核兵器が人類の脅威だといった時代があったが、その時ですら、日常生活にはなんら支障はなかった。

ところが、豚ウイルスだとか、鳥インフルエンザなどに媒介するウイルスの病原体が変異を繰り返すことによって、人間への感染を引き起こし、世界中に急速に広まることでワクチンの製造や、その防疫すら間に合わないことによる混乱が経済にまで影響してしまっている。

では、そのウイルスによる人への感染により人の命が失われるこの事実を捉えた時に、ウイルスは人類の敵だといえるのか?という大きな謎が存在している。そのようなことを考えてみるとウイルスは、果たして生命体といえるのか?という疑問にもぶつかってしまう。自然科学においては、このウイルスを生物、非生物、言い換えると、生命体、非生命体どちらなのかの定義付けが定かでないでいる。

それは、自己増殖に際して細胞を持たずに他の細胞を借用して増殖をおこなうからであろう。それと、ウイルスにはDNAウイルスとRNAウイルスの二つが存在している。つまり、一般の生物とは違ってDNAかRNAか、どちらかの一方しか持っていないのが特徴である。

しかし、その増殖力や人類を死に至らしめる攻撃力を思うと非生物とはとても思えない生き物である。ここで、『生き物』という言葉を使ったが、『生物』か『非生物』かの区分が出来ていない現状があり、その半面、事実として人類に挑戦するかのようなふるまいの行動が存在している以上、『生き物』というブンガク的言葉の綾で表現するしかないだろう。

生物の遺伝子はDNAがA, G, C, T、一方RNAはTがUに変わってA, G, C, U、といったエレメントによる四進法的プログラムで構成されているが、こうしたシンプルな構造で生き物が出来上がるから不思議といえる。

先程、ウイルスが人類を攻撃しているという言い方になってしまったが、そうした『攻撃』という言葉が意味するところは、人類に対するウイルスの『意志』がなければならない。『意志』という言葉には、当然『こころ』という言葉が付随している。『こころ』無き『意志』などはありえないからだ。

それにしても、こんなシンプルな有機物でもって、したたかな展開をしていくというのは、どう考えても不気味である。それと、気になるのがこうした発生の元が人間の食糧として飼っている鶏や豚などを宿主としていること。

ついでに付け加えると、あのBSEもウイルスではないが、牛にて発現する異常プリオン蛋白によるものだから、どう考えても、これは、そうした病原体が、鶏や豚や牛の代わりに人間対する復讐を行っているという風に感じてしまいます。

そんな風に感じ取ってしまうのは、人の心に何か後ろめたいものがあるからだと思う。人は高等動物という存在であるが、下等動物を食物として日常食べることはベジタリアンでないかぎり、今日ではごく普通の食生活である。

下等動物をそうした食物として飼育し、『食糧としての生き物』にしてしまったところに、何か後ろめたさがあるのだ。『食糧としての生き物』にされた下等動物は、その一生が人間に食べられる為に生きているというこの事実は、残酷といえば残酷な境遇である。

そうしたことを平気で出来るのは、下等動物には心が無いという確信から来ているような気がする。もし、下等動物に喜怒哀楽という気持ちが存在していたら、果たして人はそういう動物を食糧として飼育し、平気に食べることが出来るだろうか?

恐らく、チンパンジーが喜怒哀楽を持ち合わせているのと同じように、豚や牛、にわとりにもそうしたものがあったとすれば気持ちが悪くて食べられないでしょう。

哺乳類よりも、魚類、魚類よりも、植物といった具合に心の存在が無いと思えるものほど食として扱うのに抵抗が無いものだと思う。では、何故、心があると食物にし難いのか?それは、簡単なことだ。食物にする為には、その『こころ』を持った生命を絶たなければならないからだ。端的に云うと『心を殺す』という行為だ。

人はあたりまえだが、他の生命体を殺してそれを食することで生きている。たとえベジタリアンと雖も、そうなのだ。植物だって生命体なのだから。

そうしたことを思うと、これは、下等動物にとって代わったウイルスの人間に対する代理戦争だと思わず思ってしまうのだ。そんな想いは、SFだと言われるかもしれないが、下等動物から派生する変幻自在のウイルスが、現に世界中の人々に対して危機を招かせている事実がある限り、完全には否定できない気がする。

肝心のウイルスには、心があるのか?と考えると、植物にも心があるという昨今の研究科学者でさえ、『ウイルスにも心がある』と発言する科学者はいないでしょう。それは、ひとつには「あんなシンプルな有機体に心を持つような構造なんてありはしない」と、思うからでしょう。心を持つにはかなりの進化した構造体でないと無理だと思うからでしょう。

科学にとっては、『こころ』と言うものに対する解明は、まったく手付かずの領域です。確かに、脳科学はかなり進歩して、かなりのことがよくわかるようになってきた。そして、心理学という学問もかなりこころの問題に入ってきている。

ウイルスに心が無いとしたら、『意志』も無いことになる。すると、先程、人類に挑戦するかのような振る舞いには、『意志』が働いていないということになる。つまり、単なる自然発生的な存在と言うだけである。

自然発生的な存在なのに『意志』が無いのであれば、目的も無いということになる。目的も無い自然発生的な『生物』或いは『非生物』というのは、動かぬ無機質の物質であれば、不気味でも何でもないが、じっとはしていない『生物』或いは『非生物』なのだから気持ちが悪い。

この『生物』或いは『非生物』が、『意志』もないのに、すなわち『こころ』も無いのに人間を襲うのはどうしてだろう。いや、この『生物』或いは『非生物』にとっては、人間を襲っているのではなく、人間が勝手に『生物』或いは『非生物』の存在を高める環境にしてしまっただけのことかもしれない。そう考えてみる方が自然かもしれない。

先程、『こころ』を所有するということは、かなり高等な構造体でないと無理みたいな先入観でもって発言をしたが、それは誤りかもしれない。ひょっとすると、構造体というのは、あくまで物質のことであるから、物質に対する認識が甘いのかもしれない。シンプルな物質といえども、それを物理学的に細分化していくと限りなく不明なつくりとなっている。量子力学における素粒子の振る舞いひとつにしてもしかりで、物質と反物質のバランスの差でもってこの宇宙が出現したという話を聞いただけでもなおさら不可解なことばかりである。

『こころ』もまた、単に、物質から派生した現象として捉えるには不可解なところが多々ある。ただひとつ言えることは、少なくとも『こころ』を持つ必要条件としては『生命体』であることだ。ここで、『こころ』を持つ十分条件が『生命体』であると仮定すれば、ウイルスは『生命体』か『非生命体』かの議論になるかもしれない。

では、『生命体』とは何か?といえば端的に云うと、『生』と『死』の変遷があるということだろう。だから、人間にとって『生きること』も大切だが、『死ぬこと』も同様に大切なのだと思う。つまり『生死』で生命と言えるからだ。片手落ちでは困るのだ。

ウイルスと人間の存在は、『生物』或いは『非生物』の枠を越えて、極致の宇宙が生んだ自然の産物であるのには間違いないが、ウイルスを突き動かしているものは何か?意志も目的も無いウイルスに脅かされている人間の存在自体も『自然』の成り行きといえるのだろうか?という限りない思考が巡らされて行く。

by 大藪光政