幸福と心について考えてみた・・・


『幸福』という言葉は以前からとても気になっている言葉である。

テーマにおいては『幸福と心』という見出しで始まっているが、これが『幸福と魂』、『幸福と精神』ではピンとこない。余計だが、『幸福と霊』となるとさっぱりわからないから困ったものだ。だから何故、『幸福と心』を選んだか?もうお分かりでしょう。

逆に、魂や精神や霊に幸せが宿る必要があるか?などと考えてみるとわけがわからなくなる。しかし、心に幸せが宿ることはいいことだし、心は幸福を求めていると言った強調表現を使ったとしても、違和感は特にない。

それは、心にとって身体はもっとも身近な己の生身の現実問題であるからだ。すなわち、魂とかいうものは生身とは少し距離がある。精神だと身体と対峙しているから理想を選択する精神的幸福と現実を選択する身体的幸福とは咬み合わないだろう。霊となるとそれが存在しているのかということすら怪しいと思ってしまう。つまり身体とは程遠いからピンと来ない。

それに対して、心は身体の相談に常日頃親切に耳を傾けてくれる。ひょっとすると心が幸福を求めているというよりも、60兆もあるだろうと言われているまるで星の数みたいな身体の細胞が、心に対して保身の幸せ、言い換えると存在することの幸せを求めているのだろう。

『幸福』という言葉が、歳をとるにつれ不思議な響きとして変化をしていくものであると感じるのはどうしてだろうか?

思索家の池田晶子さんは、この言葉について語ることを苦手みたいに著書の中で記してあった気がする。しかし、哲学者の中においては、『幸福論』と題した本を立派に書いている人もいる。

インターネット検索のGoogleで検索してみると、アラン、ヒルティ、ラッセルと、これらの『幸福論』を一度も読んだことのないような有名な哲学者が揃っている。驚いた事に、芸能人の福山雅治が上位にヒットしている。もちろん歌詞としての内容の最後に『幸福論』という言葉が入っていただけだが上位ランクになっている。

彼は今となっては若きマルチの大スターなので参考までに、このWebページを開いてみた。成程、詩も立派な傍観哲学だ。詩の最後のところで「それが僕の幸福論」と締め括っている。これは、論文より生身の生き方の中にこそ『幸福論』があると訴えているようだ。

私は先程の有名な哲学者の『幸福論』については、自慢にならないが不勉強で読んだことがない。食わず嫌いなのか?これを書くにおよんですら読む気もしない。でも、福山雅治の『幸福論』という言葉が入った詩だけは、先程、ついうっかり読んでしまった。

日常において、『幸福』という言葉を主に取り上げて公然とそれを押し付ける人などは、作家だけでなく他の人であれ、好きになれない。何故かと言うと偽善的な胡散臭いものが感じられるからだ。特に、「幸福についての話や、方法を聞けば幸福になる」などという誘い話などはどうも怪しい。

このブログを書く筆者は、『考えてみた』と言っているだけだが、念のため胡散臭いと疑ってこれを読んで頂きたい。但し、先程の福山雅治は違うようです。彼は、自問自答したものを歌詞にしただけでしょう。

福山ファンに叩かれてはたまらないので次のコメントを特別に付け加えておきましょう。

芸能界にもともと疎いので彼の演技活動を観ることは殆どない。だが色々な飛び込む情報を通しての彼の活躍には目を見張るものがある。彼は若くまぶしいほど輝いている。傍から見ていてもスーパースターの名をしっかり掴んでいくのが現在進行形としてひと目で誰にでもわかる。

福山雅治のファンでもなんでもない者ですらそう感じる。ただ彼の人気が翳ってきたとき、彼の不幸が始まったと他の者は思うかもしれない。しかし、心強き彼の気持ちは、きっと別なところにあるに違いない。

さて、肝心のテーマ『幸福と心』に戻ってみよう。幸福とは人に対してだけ言えることなのか?それとも一般動物に対しても言えるのか?という大きな仕分けがまずある。よく、動物は自然に放たれた状態がもっとも幸せなのだと人は良く言う。人間に飼われることは不幸なことだと。そうかもしれない。

でも、犬や猫では別だろうと思いたくなる。こうした人間がすでに手懐けてしまった動物にとっては、やさしい飼い主に恵まれれば幸せというものだろう。自然は厳しい。「野犬や野良猫は寿命が極端に短い。」と、ふくま獣医科病院の先生が言っていた。

「何故ですか?」と突っ込んで聞くと、「それは、食べ物や病気などの厳しい生活環境に対応しきれないからです。」と言われていた。自然界ではペット化された動物は生きるのが大変なのだ。動物にとっては幸福とは命に係わることなのだと思わざるを得ない。

しかし、愛玩としての犬や猫やすべての自然動物は、人間のように幸せという言葉どころかその状態すら考えることはできないだろう。それでもそれらの動物の一生にはちゃんと、幸、不幸があるように思える。それは、人間がそう思っているだけで、その現象を人間が擬人化して表現しているだけだろう。

その動物に対して幸せだと言わしめる人間の代弁的表現には、動物の命が天寿としてまっとうできれば幸せということに繋がっている。動物にとって、出世や財産、名声などは無いからもっとも幸せに繋がるものは生きる命しかないだろう。

あと、動物が幸せを感ずるだろうと想像出来きそうなものを強いてあげれば、動物の家族とか仲間との連関すなわち愛情みたいなものでしょう。しかし、愛犬家に言わせると、「犬のしあわせ?そりゃ〜一番喜ぶのは、散歩だよ。」と、言われそうです。

事実、我が愛犬ショルティに「散歩に行こうか?」と、声を掛けると、それはもう幸せそうに尻尾を振ってクルクル回ります。つまり、犬にとっては人間も家族なのですね。だから、このやりとりも家族愛かな?

ところが人間は色々考えるから大変複雑で、命や愛情だけでは幸せになれないと言う人もいるでしょう。いくら長生き出来ても、毎日お金に困って生活が苦しければ命なんぞ投げ出した方がよいと思っている人は、この世にどれだけいることか。

また、お金が無くては、愛情が薄情に変身することを実感している人がいることも周知のとおりです。こうなりますと『幸福』は、お金によって左右されるということに一見なりそうですね。

幸せというものがお金で買えそうだという極論になりそうですが、前に言った動物としての幸福が天寿のまっとうであることを考えると、天命はお金では買えません。でも、お金で高度医療が受けられるから、お金がないと助かる命も助からないと言われるでしょう。

それはある意味で真でしょう。けれども、命が助かるか否かに対してのお金という存在は、高度医療が受けられる為の必要条件ではありますが、命が助かる為の十分条件は満たしておりません。

次に、愛情も経済力というお金の存在がないと得られないという論理ですが、これはどうも成り立たないみたいです。それは、家庭の生計が成り立たなくなると家族間の愛情が破局に陥ることがあるのは事実ですが、かといって必ずしも絶対にそうなるとは限りません。

生活が苦しくても、家族間の愛の絆が逆に強くなることは実話をモデルにして、小説でも、映画でも、テレビのドラマでも演じられているのを皆さんはご存知でしょう。愛情とお金の関係は必要十分条件のどちらも確実には満たしません。

さて、困りました。人間の幸福とはどういった状態を指すのか?そして、心と幸福の関係は一体どうなっているのか?さっぱりわからなくなりましたね。

このテーマを書き始めた1月3日の夜、NHKで丁度、詩人のまど・みちおさんが百歳の誕生日を迎えたという特別番組がありました。

私は、不勉強ながら『ぞうさん』や『いちねんせいになったら』など多数の歌を知っていましたが、まど・みちおさんという作詞家の名前はつい最近まで知りませんでした。たまたま、無量育成塾で塾生に詩集を読ませるために図書館から多数の詩集本を借りてきたとき、初めてまど・みちおさんの存在を知ったのですから恥ずかしい限りです。

塾生からは、「どうして先生が借りてくる詩集の本の中に、まど・みちおの詩集が多いのですか?」と聞かれた事がありますが、こちらが意識してそうしているのではなく、書棚から無差別に持ち帰ってみると、まど・みちおさんの詩集が沢山入っているのです。つまり、それだけ作品が多いということですね。

当日の番組では、まど・みちおさんが病室で、ある県立高校の放送部の女子生徒さんから幸福について、次のようなニュアンスの質問を受けました。「先生は、幸せってどんなときに感じるものでしょうか?」すると、まど・みちおさんが急に真剣な表情で、「それは、自分の生き方を肯定しているときだと思います。」と云う、鋭い返答が躊躇することなくしっかりと返ってきました。(実際の会話としては表現が違っているかとは思いますが、本質的にはこの通りなのです)

まど・みちおさんはテレビの中で「眺めるものはすべて不思議なものばかりだ!」と言っていましたので、一風変わった観察力の鋭い傍観的哲人だと感じていましたが、それを聞いて、傍観するだけでなくそうしたことを深く常日頃考えておられるのだなあ〜と、恐れ入った次第です。

まど・みちおさんが答えられた『自分の生き方を肯定しているとき』が幸せな状態であるのは、頷けられます。例えば、自殺する人は、自分の生き方に対して肯定できないから命を絶つことになります。生活に苦しくても、家族で支えあいながら生きていることを否定しないでおれる人は、幸せだということです。これを否定すれば不幸な状態ということになります。

まさに、自分の生き方に対して肯定するか否かは、今の自分が幸せか否かの状態を知るのと同値です。もちろん、長い人生においてこの肯定否定が度々、交差することもあるでしょう。それが人生の綾というものです。

人が幸せになるには、自分の生き方が肯定できるような生き方をすればよいことになります。

そうなると、どんな生き方をすればよいのか?ということになりますね。

ここが問題なのかもしれません。

肯定できる生き方とは、ある意味で悔いのない生き方でしょう。であれば、幸せに生きるとは悔いなき人生を送るということになりますが、悔いばかり引き起こしている者にとっては、大変不幸せ者ということになります。

すると、当の筆者もそのひとりです。しかし、これは困った!筆者は毎日悔いることがあっても、その時に応じて、不幸せだと思ったり、幸せだと感じたりしているからです。つまり、悔いることがあっても幸せに感じることもあるので少し変です。そんなときは、結果がどうであれ自身の決断であれば納得が出来るからかもしれません。

まど・みちおさんは、放送の中で、戦争行為や軍隊を賞賛した詩を作ったことがあり、後で、大いに悔いていました。そのときのまど・みちおさんの心は、不幸そのものだったと思います。しかし、彼は、ちゃんと公の場で自身の過ちをきちんと書くことでけじめとして詫びています。

恐らくその行為は悔いのない姿勢だったので、彼の心は救われて幸せになったことでしょう。そうしてみると、悔いある行為があったとしても、機会を得てきちんと自身の意思でそれを是正すれば幸せになれるということですね。

死ぬまでに、己の意思でもって行為を貫き続けることが、悔いあっても悔いのない人生なのかもしれません。それが、幸せというものでしょう。

この原稿を下書きしている間、朝日新聞の1月4日の夕刊に、武者小路実篤の『魯迅の弟にあてた手紙発見』と言った見出し記事を読みました。実篤本人の本音は戦争嫌気?という見出しもあり、戦争に協力的だったとされる実篤が、実は、手紙によると戦争協力を強いられながらも、本心は、そうではないことをゲロした内容でした。

国家権力というモンスターに対して己の信念を貫くことは大変なことでありますが、実篤はその点、死んだ振りをして本音はそうではないという処世術を心得ていたのでしょう。しかし、そもそもモンスターというものは、鳥瞰的な判断が出来ない有識者と本当のことを言い切らない沈黙の有識者の中で異常発酵して出来上がったものだから、戦争責任を誰に問えばよいのか?その点、魯迅の弟である周作人は意思の強い文学者だったと思います。実篤は、恐らく、己の不徳を恥じての処世術巧みな言い訳の手紙だったかもしれません。

はたから見て、己の生き方が間違っていても、そうとは気付かなくそれを肯定しておれば、それも幸せというものでしょうか?

幸福というものは、心の運動に因る肯定できる生き様の蜃気楼みたいなものかもしれません。しかし、その心の運動が、他の心を揺り動かすこともありますから不思議です。己が肯定した生き方が、第三者を突き動かすような生き方であるのが本当の幸せであるのかもしれません。

まど・みちおさんは、人の心を揺り動かす詩人であり、人を諭す哲人でもあります。まど・みちおさんの幸福は本物なのでしょう。

最初に取り上げた思索家の池田晶子さんは短命でしたが、やり残したことについては悔いがあっても、池田さんが成し遂げた行為には悔いはなく幸せな人生だったでしょう。そうしてみると、己の命を差し出した三島由紀夫も同じく、悔いのない幸せな人生だったと思います。命短しの人生でも、人の心を摑んでんでいるから本物の幸福を摑んだ人でしょう。

医学が発達し、食生活も向上した今日、日本は世界でも長寿国になっていますが、ただ長く生きしておれば幸せか?は、また別問題であることが、今までの話でわかっていただけると思います。無用に長生きすることが人類にとって幸せだろうか?という、食糧や人口問題などの大きな課題すらあります。

人間は、命やお金に代えることの出来ない己が決めた使命に向かって進む姿勢こそ尊いものであり、悔いのない人生と言えるし、それがどんなにささやかな使命であってもその人にとってはかけがえのない幸せでしょう。

その『己が決めた使命に向かって進む姿勢』という心の決意は、己の存在を潜在的に意識しているから湧き起こるものであろう。そうした己の存在と行為をいつの日かどこかの誰かが必ず看取してくれると確信しているからこそ成し遂げようとするものだろうと思う。

『幸福と心』における今までの話を総体的に考えてみると、命、生活、志、愛などのすべてには『存在』という基層としての言葉でもって集約されていることに気付く。すなわち存在が幸福を求めているし、幸せな心が存在の実感を味わっている。人間が『存在』の永遠性を求める限り、幸福という言葉は不可欠なものでしょう。

色々とドリフトしながら理想めいたことも書いてきましたが、畢竟、自分のこととなると『お金よりも信』を貫こうとして、経済的に大変困った時期があって、そのときは、莫迦な判断をしたと後悔しましたが、時間が経ってから今振り返ってみても、その方向性のおかげで、逆に、今日のような肯定的な自由な生き生きとした人生がここにあると実感している今日この頃です。


父の遺言通り「自分の意に反するようなことはするな!」を常々実行してきましたが、その自分の意に反しない行為の成果としては、果たして第三者から客観的に見ても最良の行為になり得たか?それは、まだまだこれからでしょう。努力が足りないような気がします。

by 大藪光政

(胸像の写真人物は中津市の旧宅前にある福澤諭吉像です)