幸福と心について考えてみた・・・


『幸福』という言葉は以前からとても気になっている言葉である。

テーマにおいては『幸福と心』という見出しで始まっているが、これが『幸福と魂』、『幸福と精神』ではピンとこない。余計だが、『幸福と霊』となるとさっぱりわからないから困ったものだ。だから何故、『幸福と心』を選んだか?もうお分かりでしょう。

逆に、魂や精神や霊に幸せが宿る必要があるか?などと考えてみるとわけがわからなくなる。しかし、心に幸せが宿ることはいいことだし、心は幸福を求めていると言った強調表現を使ったとしても、違和感は特にない。

それは、心にとって身体はもっとも身近な己の生身の現実問題であるからだ。すなわち、魂とかいうものは生身とは少し距離がある。精神だと身体と対峙しているから理想を選択する精神的幸福と現実を選択する身体的幸福とは咬み合わないだろう。霊となるとそれが存在しているのかということすら怪しいと思ってしまう。つまり身体とは程遠いからピンと来ない。

それに対して、心は身体の相談に常日頃親切に耳を傾けてくれる。ひょっとすると心が幸福を求めているというよりも、60兆もあるだろうと言われているまるで星の数みたいな身体の細胞が、心に対して保身の幸せ、言い換えると存在することの幸せを求めているのだろう。

『幸福』という言葉が、歳をとるにつれ不思議な響きとして変化をしていくものであると感じるのはどうしてだろうか?

思索家の池田晶子さんは、この言葉について語ることを苦手みたいに著書の中で記してあった気がする。しかし、哲学者の中においては、『幸福論』と題した本を立派に書いている人もいる。

インターネット検索のGoogleで検索してみると、アラン、ヒルティ、ラッセルと、これらの『幸福論』を一度も読んだことのないような有名な哲学者が揃っている。驚いた事に、芸能人の福山雅治が上位にヒットしている。もちろん歌詞としての内容の最後に『幸福論』という言葉が入っていただけだが上位ランクになっている。

彼は今となっては若きマルチの大スターなので参考までに、このWebページを開いてみた。成程、詩も立派な傍観哲学だ。詩の最後のところで「それが僕の幸福論」と締め括っている。これは、論文より生身の生き方の中にこそ『幸福論』があると訴えているようだ。

私は先程の有名な哲学者の『幸福論』については、自慢にならないが不勉強で読んだことがない。食わず嫌いなのか?これを書くにおよんですら読む気もしない。でも、福山雅治の『幸福論』という言葉が入った詩だけは、先程、ついうっかり読んでしまった。

日常において、『幸福』という言葉を主に取り上げて公然とそれを押し付ける人などは、作家だけでなく他の人であれ、好きになれない。何故かと言うと偽善的な胡散臭いものが感じられるからだ。特に、「幸福についての話や、方法を聞けば幸福になる」などという誘い話などはどうも怪しい。

このブログを書く筆者は、『考えてみた』と言っているだけだが、念のため胡散臭いと疑ってこれを読んで頂きたい。但し、先程の福山雅治は違うようです。彼は、自問自答したものを歌詞にしただけでしょう。

福山ファンに叩かれてはたまらないので次のコメントを特別に付け加えておきましょう。

芸能界にもともと疎いので彼の演技活動を観ることは殆どない。だが色々な飛び込む情報を通しての彼の活躍には目を見張るものがある。彼は若くまぶしいほど輝いている。傍から見ていてもスーパースターの名をしっかり掴んでいくのが現在進行形としてひと目で誰にでもわかる。

福山雅治のファンでもなんでもない者ですらそう感じる。ただ彼の人気が翳ってきたとき、彼の不幸が始まったと他の者は思うかもしれない。しかし、心強き彼の気持ちは、きっと別なところにあるに違いない。

さて、肝心のテーマ『幸福と心』に戻ってみよう。幸福とは人に対してだけ言えることなのか?それとも一般動物に対しても言えるのか?という大きな仕分けがまずある。よく、動物は自然に放たれた状態がもっとも幸せなのだと人は良く言う。人間に飼われることは不幸なことだと。そうかもしれない。

でも、犬や猫では別だろうと思いたくなる。こうした人間がすでに手懐けてしまった動物にとっては、やさしい飼い主に恵まれれば幸せというものだろう。自然は厳しい。「野犬や野良猫は寿命が極端に短い。」と、ふくま獣医科病院の先生が言っていた。

「何故ですか?」と突っ込んで聞くと、「それは、食べ物や病気などの厳しい生活環境に対応しきれないからです。」と言われていた。自然界ではペット化された動物は生きるのが大変なのだ。動物にとっては幸福とは命に係わることなのだと思わざるを得ない。

しかし、愛玩としての犬や猫やすべての自然動物は、人間のように幸せという言葉どころかその状態すら考えることはできないだろう。それでもそれらの動物の一生にはちゃんと、幸、不幸があるように思える。それは、人間がそう思っているだけで、その現象を人間が擬人化して表現しているだけだろう。

その動物に対して幸せだと言わしめる人間の代弁的表現には、動物の命が天寿としてまっとうできれば幸せということに繋がっている。動物にとって、出世や財産、名声などは無いからもっとも幸せに繋がるものは生きる命しかないだろう。

あと、動物が幸せを感ずるだろうと想像出来きそうなものを強いてあげれば、動物の家族とか仲間との連関すなわち愛情みたいなものでしょう。しかし、愛犬家に言わせると、「犬のしあわせ?そりゃ〜一番喜ぶのは、散歩だよ。」と、言われそうです。

事実、我が愛犬ショルティに「散歩に行こうか?」と、声を掛けると、それはもう幸せそうに尻尾を振ってクルクル回ります。つまり、犬にとっては人間も家族なのですね。だから、このやりとりも家族愛かな?

ところが人間は色々考えるから大変複雑で、命や愛情だけでは幸せになれないと言う人もいるでしょう。いくら長生き出来ても、毎日お金に困って生活が苦しければ命なんぞ投げ出した方がよいと思っている人は、この世にどれだけいることか。

また、お金が無くては、愛情が薄情に変身することを実感している人がいることも周知のとおりです。こうなりますと『幸福』は、お金によって左右されるということに一見なりそうですね。

幸せというものがお金で買えそうだという極論になりそうですが、前に言った動物としての幸福が天寿のまっとうであることを考えると、天命はお金では買えません。でも、お金で高度医療が受けられるから、お金がないと助かる命も助からないと言われるでしょう。

それはある意味で真でしょう。けれども、命が助かるか否かに対してのお金という存在は、高度医療が受けられる為の必要条件ではありますが、命が助かる為の十分条件は満たしておりません。

次に、愛情も経済力というお金の存在がないと得られないという論理ですが、これはどうも成り立たないみたいです。それは、家庭の生計が成り立たなくなると家族間の愛情が破局に陥ることがあるのは事実ですが、かといって必ずしも絶対にそうなるとは限りません。

生活が苦しくても、家族間の愛の絆が逆に強くなることは実話をモデルにして、小説でも、映画でも、テレビのドラマでも演じられているのを皆さんはご存知でしょう。愛情とお金の関係は必要十分条件のどちらも確実には満たしません。

さて、困りました。人間の幸福とはどういった状態を指すのか?そして、心と幸福の関係は一体どうなっているのか?さっぱりわからなくなりましたね。

このテーマを書き始めた1月3日の夜、NHKで丁度、詩人のまど・みちおさんが百歳の誕生日を迎えたという特別番組がありました。

私は、不勉強ながら『ぞうさん』や『いちねんせいになったら』など多数の歌を知っていましたが、まど・みちおさんという作詞家の名前はつい最近まで知りませんでした。たまたま、無量育成塾で塾生に詩集を読ませるために図書館から多数の詩集本を借りてきたとき、初めてまど・みちおさんの存在を知ったのですから恥ずかしい限りです。

塾生からは、「どうして先生が借りてくる詩集の本の中に、まど・みちおの詩集が多いのですか?」と聞かれた事がありますが、こちらが意識してそうしているのではなく、書棚から無差別に持ち帰ってみると、まど・みちおさんの詩集が沢山入っているのです。つまり、それだけ作品が多いということですね。

当日の番組では、まど・みちおさんが病室で、ある県立高校の放送部の女子生徒さんから幸福について、次のようなニュアンスの質問を受けました。「先生は、幸せってどんなときに感じるものでしょうか?」すると、まど・みちおさんが急に真剣な表情で、「それは、自分の生き方を肯定しているときだと思います。」と云う、鋭い返答が躊躇することなくしっかりと返ってきました。(実際の会話としては表現が違っているかとは思いますが、本質的にはこの通りなのです)

まど・みちおさんはテレビの中で「眺めるものはすべて不思議なものばかりだ!」と言っていましたので、一風変わった観察力の鋭い傍観的哲人だと感じていましたが、それを聞いて、傍観するだけでなくそうしたことを深く常日頃考えておられるのだなあ〜と、恐れ入った次第です。

まど・みちおさんが答えられた『自分の生き方を肯定しているとき』が幸せな状態であるのは、頷けられます。例えば、自殺する人は、自分の生き方に対して肯定できないから命を絶つことになります。生活に苦しくても、家族で支えあいながら生きていることを否定しないでおれる人は、幸せだということです。これを否定すれば不幸な状態ということになります。

まさに、自分の生き方に対して肯定するか否かは、今の自分が幸せか否かの状態を知るのと同値です。もちろん、長い人生においてこの肯定否定が度々、交差することもあるでしょう。それが人生の綾というものです。

人が幸せになるには、自分の生き方が肯定できるような生き方をすればよいことになります。

そうなると、どんな生き方をすればよいのか?ということになりますね。

ここが問題なのかもしれません。

肯定できる生き方とは、ある意味で悔いのない生き方でしょう。であれば、幸せに生きるとは悔いなき人生を送るということになりますが、悔いばかり引き起こしている者にとっては、大変不幸せ者ということになります。

すると、当の筆者もそのひとりです。しかし、これは困った!筆者は毎日悔いることがあっても、その時に応じて、不幸せだと思ったり、幸せだと感じたりしているからです。つまり、悔いることがあっても幸せに感じることもあるので少し変です。そんなときは、結果がどうであれ自身の決断であれば納得が出来るからかもしれません。

まど・みちおさんは、放送の中で、戦争行為や軍隊を賞賛した詩を作ったことがあり、後で、大いに悔いていました。そのときのまど・みちおさんの心は、不幸そのものだったと思います。しかし、彼は、ちゃんと公の場で自身の過ちをきちんと書くことでけじめとして詫びています。

恐らくその行為は悔いのない姿勢だったので、彼の心は救われて幸せになったことでしょう。そうしてみると、悔いある行為があったとしても、機会を得てきちんと自身の意思でそれを是正すれば幸せになれるということですね。

死ぬまでに、己の意思でもって行為を貫き続けることが、悔いあっても悔いのない人生なのかもしれません。それが、幸せというものでしょう。

この原稿を下書きしている間、朝日新聞の1月4日の夕刊に、武者小路実篤の『魯迅の弟にあてた手紙発見』と言った見出し記事を読みました。実篤本人の本音は戦争嫌気?という見出しもあり、戦争に協力的だったとされる実篤が、実は、手紙によると戦争協力を強いられながらも、本心は、そうではないことをゲロした内容でした。

国家権力というモンスターに対して己の信念を貫くことは大変なことでありますが、実篤はその点、死んだ振りをして本音はそうではないという処世術を心得ていたのでしょう。しかし、そもそもモンスターというものは、鳥瞰的な判断が出来ない有識者と本当のことを言い切らない沈黙の有識者の中で異常発酵して出来上がったものだから、戦争責任を誰に問えばよいのか?その点、魯迅の弟である周作人は意思の強い文学者だったと思います。実篤は、恐らく、己の不徳を恥じての処世術巧みな言い訳の手紙だったかもしれません。

はたから見て、己の生き方が間違っていても、そうとは気付かなくそれを肯定しておれば、それも幸せというものでしょうか?

幸福というものは、心の運動に因る肯定できる生き様の蜃気楼みたいなものかもしれません。しかし、その心の運動が、他の心を揺り動かすこともありますから不思議です。己が肯定した生き方が、第三者を突き動かすような生き方であるのが本当の幸せであるのかもしれません。

まど・みちおさんは、人の心を揺り動かす詩人であり、人を諭す哲人でもあります。まど・みちおさんの幸福は本物なのでしょう。

最初に取り上げた思索家の池田晶子さんは短命でしたが、やり残したことについては悔いがあっても、池田さんが成し遂げた行為には悔いはなく幸せな人生だったでしょう。そうしてみると、己の命を差し出した三島由紀夫も同じく、悔いのない幸せな人生だったと思います。命短しの人生でも、人の心を摑んでんでいるから本物の幸福を摑んだ人でしょう。

医学が発達し、食生活も向上した今日、日本は世界でも長寿国になっていますが、ただ長く生きしておれば幸せか?は、また別問題であることが、今までの話でわかっていただけると思います。無用に長生きすることが人類にとって幸せだろうか?という、食糧や人口問題などの大きな課題すらあります。

人間は、命やお金に代えることの出来ない己が決めた使命に向かって進む姿勢こそ尊いものであり、悔いのない人生と言えるし、それがどんなにささやかな使命であってもその人にとってはかけがえのない幸せでしょう。

その『己が決めた使命に向かって進む姿勢』という心の決意は、己の存在を潜在的に意識しているから湧き起こるものであろう。そうした己の存在と行為をいつの日かどこかの誰かが必ず看取してくれると確信しているからこそ成し遂げようとするものだろうと思う。

『幸福と心』における今までの話を総体的に考えてみると、命、生活、志、愛などのすべてには『存在』という基層としての言葉でもって集約されていることに気付く。すなわち存在が幸福を求めているし、幸せな心が存在の実感を味わっている。人間が『存在』の永遠性を求める限り、幸福という言葉は不可欠なものでしょう。

色々とドリフトしながら理想めいたことも書いてきましたが、畢竟、自分のこととなると『お金よりも信』を貫こうとして、経済的に大変困った時期があって、そのときは、莫迦な判断をしたと後悔しましたが、時間が経ってから今振り返ってみても、その方向性のおかげで、逆に、今日のような肯定的な自由な生き生きとした人生がここにあると実感している今日この頃です。


父の遺言通り「自分の意に反するようなことはするな!」を常々実行してきましたが、その自分の意に反しない行為の成果としては、果たして第三者から客観的に見ても最良の行為になり得たか?それは、まだまだこれからでしょう。努力が足りないような気がします。

by 大藪光政

(胸像の写真人物は中津市の旧宅前にある福澤諭吉像です)

生命体と心について Ver1

今日、現代人にとっての脅威は核兵器でなくウイルスになっている。それは日々のニュースでもご存知のように日常生活にまで深く影響を及ぼしている。核兵器が人類の脅威だといった時代があったが、その時ですら、日常生活にはなんら支障はなかった。

ところが、豚ウイルスだとか、鳥インフルエンザなどに媒介するウイルスの病原体が変異を繰り返すことによって、人間への感染を引き起こし、世界中に急速に広まることでワクチンの製造や、その防疫すら間に合わないことによる混乱が経済にまで影響してしまっている。

では、そのウイルスによる人への感染により人の命が失われるこの事実を捉えた時に、ウイルスは人類の敵だといえるのか?という大きな謎が存在している。そのようなことを考えてみるとウイルスは、果たして生命体といえるのか?という疑問にもぶつかってしまう。自然科学においては、このウイルスを生物、非生物、言い換えると、生命体、非生命体どちらなのかの定義付けが定かでないでいる。

それは、自己増殖に際して細胞を持たずに他の細胞を借用して増殖をおこなうからであろう。それと、ウイルスにはDNAウイルスとRNAウイルスの二つが存在している。つまり、一般の生物とは違ってDNAかRNAか、どちらかの一方しか持っていないのが特徴である。

しかし、その増殖力や人類を死に至らしめる攻撃力を思うと非生物とはとても思えない生き物である。ここで、『生き物』という言葉を使ったが、『生物』か『非生物』かの区分が出来ていない現状があり、その半面、事実として人類に挑戦するかのようなふるまいの行動が存在している以上、『生き物』というブンガク的言葉の綾で表現するしかないだろう。

生物の遺伝子はDNAがA, G, C, T、一方RNAはTがUに変わってA, G, C, U、といったエレメントによる四進法的プログラムで構成されているが、こうしたシンプルな構造で生き物が出来上がるから不思議といえる。

先程、ウイルスが人類を攻撃しているという言い方になってしまったが、そうした『攻撃』という言葉が意味するところは、人類に対するウイルスの『意志』がなければならない。『意志』という言葉には、当然『こころ』という言葉が付随している。『こころ』無き『意志』などはありえないからだ。

それにしても、こんなシンプルな有機物でもって、したたかな展開をしていくというのは、どう考えても不気味である。それと、気になるのがこうした発生の元が人間の食糧として飼っている鶏や豚などを宿主としていること。

ついでに付け加えると、あのBSEもウイルスではないが、牛にて発現する異常プリオン蛋白によるものだから、どう考えても、これは、そうした病原体が、鶏や豚や牛の代わりに人間対する復讐を行っているという風に感じてしまいます。

そんな風に感じ取ってしまうのは、人の心に何か後ろめたいものがあるからだと思う。人は高等動物という存在であるが、下等動物を食物として日常食べることはベジタリアンでないかぎり、今日ではごく普通の食生活である。

下等動物をそうした食物として飼育し、『食糧としての生き物』にしてしまったところに、何か後ろめたさがあるのだ。『食糧としての生き物』にされた下等動物は、その一生が人間に食べられる為に生きているというこの事実は、残酷といえば残酷な境遇である。

そうしたことを平気で出来るのは、下等動物には心が無いという確信から来ているような気がする。もし、下等動物に喜怒哀楽という気持ちが存在していたら、果たして人はそういう動物を食糧として飼育し、平気に食べることが出来るだろうか?

恐らく、チンパンジーが喜怒哀楽を持ち合わせているのと同じように、豚や牛、にわとりにもそうしたものがあったとすれば気持ちが悪くて食べられないでしょう。

哺乳類よりも、魚類、魚類よりも、植物といった具合に心の存在が無いと思えるものほど食として扱うのに抵抗が無いものだと思う。では、何故、心があると食物にし難いのか?それは、簡単なことだ。食物にする為には、その『こころ』を持った生命を絶たなければならないからだ。端的に云うと『心を殺す』という行為だ。

人はあたりまえだが、他の生命体を殺してそれを食することで生きている。たとえベジタリアンと雖も、そうなのだ。植物だって生命体なのだから。

そうしたことを思うと、これは、下等動物にとって代わったウイルスの人間に対する代理戦争だと思わず思ってしまうのだ。そんな想いは、SFだと言われるかもしれないが、下等動物から派生する変幻自在のウイルスが、現に世界中の人々に対して危機を招かせている事実がある限り、完全には否定できない気がする。

肝心のウイルスには、心があるのか?と考えると、植物にも心があるという昨今の研究科学者でさえ、『ウイルスにも心がある』と発言する科学者はいないでしょう。それは、ひとつには「あんなシンプルな有機体に心を持つような構造なんてありはしない」と、思うからでしょう。心を持つにはかなりの進化した構造体でないと無理だと思うからでしょう。

科学にとっては、『こころ』と言うものに対する解明は、まったく手付かずの領域です。確かに、脳科学はかなり進歩して、かなりのことがよくわかるようになってきた。そして、心理学という学問もかなりこころの問題に入ってきている。

ウイルスに心が無いとしたら、『意志』も無いことになる。すると、先程、人類に挑戦するかのような振る舞いには、『意志』が働いていないということになる。つまり、単なる自然発生的な存在と言うだけである。

自然発生的な存在なのに『意志』が無いのであれば、目的も無いということになる。目的も無い自然発生的な『生物』或いは『非生物』というのは、動かぬ無機質の物質であれば、不気味でも何でもないが、じっとはしていない『生物』或いは『非生物』なのだから気持ちが悪い。

この『生物』或いは『非生物』が、『意志』もないのに、すなわち『こころ』も無いのに人間を襲うのはどうしてだろう。いや、この『生物』或いは『非生物』にとっては、人間を襲っているのではなく、人間が勝手に『生物』或いは『非生物』の存在を高める環境にしてしまっただけのことかもしれない。そう考えてみる方が自然かもしれない。

先程、『こころ』を所有するということは、かなり高等な構造体でないと無理みたいな先入観でもって発言をしたが、それは誤りかもしれない。ひょっとすると、構造体というのは、あくまで物質のことであるから、物質に対する認識が甘いのかもしれない。シンプルな物質といえども、それを物理学的に細分化していくと限りなく不明なつくりとなっている。量子力学における素粒子の振る舞いひとつにしてもしかりで、物質と反物質のバランスの差でもってこの宇宙が出現したという話を聞いただけでもなおさら不可解なことばかりである。

『こころ』もまた、単に、物質から派生した現象として捉えるには不可解なところが多々ある。ただひとつ言えることは、少なくとも『こころ』を持つ必要条件としては『生命体』であることだ。ここで、『こころ』を持つ十分条件が『生命体』であると仮定すれば、ウイルスは『生命体』か『非生命体』かの議論になるかもしれない。

では、『生命体』とは何か?といえば端的に云うと、『生』と『死』の変遷があるということだろう。だから、人間にとって『生きること』も大切だが、『死ぬこと』も同様に大切なのだと思う。つまり『生死』で生命と言えるからだ。片手落ちでは困るのだ。

ウイルスと人間の存在は、『生物』或いは『非生物』の枠を越えて、極致の宇宙が生んだ自然の産物であるのには間違いないが、ウイルスを突き動かしているものは何か?意志も目的も無いウイルスに脅かされている人間の存在自体も『自然』の成り行きといえるのだろうか?という限りない思考が巡らされて行く。

by 大藪光政

魂について想うこと・・・Ver3


こころや精神についての章で、すでに相対的に魂についても述べてしまったのですが、魂という言葉だけは霊的な感じがする言葉だと思います。小林秀雄の話の中でも、精神や心、そして魂という用語が出てきますが、じっと聞いていますと、やはり柳田國男さんの民俗学に触れて感動し、学問と言うものは方法論や分析ばかりをやっていてはいけない、感性がないと駄目だと言っています。それは、言葉を通して本質を語るには、やはり詩人のような感性で言葉を選び用いなければ、真理は擦り寄ってこない。ということでしょうか?

その柳田國男さんの口述による本を、手にして読んだ時の話の中で、幼少の頃のおばあさんの話が出てきます。その内容をここでは書きませんが、死後のおばあさんの魂というものが、幼い國男の心の中に現れたという意味の話です。こうして見ますと、魂は不滅といったところのニュアンスが存在します。これは、今の我々誰もが、それを信じるか信じないかは別にして、『魂』という言葉に霊的な意味合いが入っているのは、皆の共通認識です。

霊的なものがあるとしますと、それは不滅なものですから大変人間にとって、とても興味深いものとして捉えることが出来ます。「物質界としての自然は常に変化する。決して固定はしない。在ると思った物は、いつしか無に帰する。それを人は無常という。しかし、厳密には『無』ではなく形や、性質が変わっただけである。でもこの世には無とならない変わらないものが在る。それは、人の目に映らないものである。例えば自然の法則、これはあり続ける。例として物理学の法則と、自然の掟としての法則などがあるようだ。」このように想いを巡らしたときに、人の目に見えないものが不滅であるということがわかります。

すると、『魂』は人の目で見ることは決して出来ませんから、不滅なものとして了解できます。それでまず、身近な『魂』である・・・人の魂について考えて見ます。 (自然界の有機物としての植物、動物、そして無機物としての石などにも、『魂』が存在すると云われる方もおられますから・・・それは、置いておきます。) 人の『魂』といったら、一番ポピューラなのが、幽霊の霊魂でしょう。しかし、こう科学が発達してきますと、そうした話が出たときに信憑性においてすぐに化けの皮がはがれること多々あります。お化けの”化けの皮”が剥がれるのだから・・・なんとも面白いものです。

現代の人々は、そうした霊魂は信じない傾向があります。そこでふと思うことを今から述べます。例えば自分に兄がいるとします。まだ死んではいないと仮定します。その仮定のもとで、兄が外国に行ったとします。すると今まで自分の近くに住んでいて、ちょくちょく会うことがあったのに、外国に行った事でもう会えないと云う事を仮定します。そして、音信不通になったとします。こうした時、この世に兄はどこかで生きているということになります。
でも、会うことはできません。ここでもし仮に、外国のどこかで途中で実際に死亡していても、まだどこかで生きていると思っているに違いありません。この現象をどう捉えたらよいのでしょう?人の死は、自分が見ることで確認することは出来ますが、見ることなくして認識は出来ないということではないでしょうか?他人からその死を知らされることで兄の死を確認することはできると人は言うでしょう。しかし、ただ知らされただけで納得できるでしょうか?ありとあらゆるその死の証拠を見せられて、仕方なく納得することはあるかもしれません。

つまり直接、目に見えない人の存在は常に心の中にあるからこそ、そうして存在が持続されているということに他なりません。それは、目に見えない存在の人が死んでいようと死んでなかろうと、その人の心の中に生きていると思うこと自体が、生きているということに他ならないからだと思います。

それは、客観的な思考ではなく、主観的な思考であると言われるかもしれませんが、個々としての人は決して客観にはなれないからです。自分から自分を離れて観察するということはありえないでしょう。

そういう観点から考えてみますと面白いです。人の心に現れる『登場人物』は、すべて『魂』だと仮定します。その人の生死に関わらず、それは常に存在していて想うこと自体が『魂』を呼び起こすことに繋がるということになりませんか?

そんな考えで行けば、仮に漱石の書物を読んだ時には漱石の『魂』がその読者の心に再現される・・・ということになります。プラトンの書物を読めば、ソクラテスの『魂』までもが現れる。孔子も、孟子も・・・と、何千年前の人物までもが、現れてくる。つまり『魂』は、脈々と生き続けているのだと。いや、『生きる』と云う言葉は不適切ですね。『存在』し続けている。といった方が正確ですね。

ところで、凡人の場合は・・・となりますと、すでに死亡した身近な人でも、その人との懐かしい頃を想い抱くことでその人の『魂』と触れ合うことがいつでもできます。つまり亡くなった方の『魂』は、その魂を想い抱く人が存在する限り存在するのでしょうが、その想いを抱く人がいなくなる事で、消滅するということになります。

こうした勝手な結論ですと、万人が認める不滅な仕事をした人は永久にそれを想う人が存在する限り、存在し続けるということになり、そうでない凡人の『魂』は、残念ながら忘れ去られた時点で自然消滅ということになります。

すると、『魂』は永久に存在するものとそうでないものとがあるということになりますが、もし、仮に人類が滅亡したら、その時点で、すべての魂は消滅するということですね。でも、それは、人類の魂に限っての話です。しかし、人類が滅亡しても、なお人間の魂が徘徊していると考えると・・・不気味な話になります。

こうした、人々が考える魂には、いつの時代でも人には魂があることを疑っていません。文学においても、例えば、徳冨蘆花の「不如帰」という小説のところで、こんな浪子の想いの一節があります。
「雨と散るしぶきを避けんともせず、浪子は一心に水の面をながめ入りぬ。かの水の下には死あり。死はあるいは自由なるべし。この病をいだいて世に苦しまんより、魂魄となりて良人に添うはまさらずや。良人は今黄海にあり。よしはるかなりとも、この水も黄海に通えるなり。さらば身はこの海の泡と消えて、魂は良人のそばに行かん。」
これをお読み頂ければ、日本人の誰もが胸を打つでしょう。そして、この浪子の想いにある、死んででも魂となって良人の傍に行きたい気持ちに対して、魂なんかあるものか!と否定される方は、恐らくいないと思います。それは、阿吽の呼吸で納得されるようなひとつの感性でしょう。

つまり、『魂』は主観的には存在しているといっても通ると思います。しかし、主観を離れたところで存在するか?といえば、それはもう物質でない徘徊している”魂”をどのようにして存在していると言えるでしょうか?

たとえば人間の思考の中から、「客観的には人の魂などというものは、存在しない。人は死ねばもう肉体が肉体で無くなり、自然に帰した物質に変化し、人の精神も魂などという根拠の無いものには成らず、ただ消失してしまうだけ、すべて無に帰してしまうのだ。」と、結論付けたら、なんと寂しいものでしよう。

それは、宇宙で唯一の存在としての自己が、刹那の時間しか、存在しないということになり、自己にとっては過去も、そして未来も一切、価値が無くなり、現在という時空間にいる今だけが自己にとってすべてとなります。そうしますと、次世代の為に貢献するというような価値観は独り相撲のような気がします。

死んでも、自己が魂として存在し続けるかもしれないということを前提とすれば、先ほどの価値観は意味があるのですが、如何でしょうか?つまり、その存在する魂に、己が行った行為に対して見届けられるという可能性があればこれはもう、頑張らなくっちゃ!ということになりませんか?

こうして考えて見ますと、過去、多くの賢人が人類の為に叡智を残していますが、それはやはり未来の人類に対してのメッセージだと思うし、賢人の魂が未来に渡って共存していると考えるべきではないでしょうか?

そして、人間のDNAには、何故か?”魂”というものを想定して創られているとしか、考えようがないような気がします。そうしたDNAに組み込まれる必然性は、恐らく人類存続の為のひとつの維持機能だと思うのですが、如何でしょうか?

それは、まともな人間は皆、”魂”というものをまったく考えない人間は存在しないと思うからです。

さて、昨今の出来事で、もうひとつ下記の問題を取り上げます。

{ あるバラエティー番組で東大の宇宙物理学でもっともノーベル賞に近い人という紹介で出演された教授に、どこのバラエティーにもよくレギュラーで出演している磯野貴理さんが、「先生、人間は死んだらどうなるのでしょう?」といった素朴な質問をされました。するとその教授は冷ややかに「死んだら無くなるだけです。身体も単なる物質として自然に帰ります。」 と、答えられました。すると面白いことに、「それでは先生、魂はどうなるのです?」と、畳み掛けました。

先生曰く、「精神や心は単なる脳の中での化学反応ですから、無くなります。」と、笑って答えました。質問者は、「えぇー」と言ったため息をしました。もし、これを小林秀雄が聞いたら怒るだろうなと私自身、興味津々でテレビを見ていました。

現代の科学者は、量子力学を体得し、分子生物学などにも深く理解を持っています。ですから、こうした回答があっても当然なのかもしれません。}

この記事は、「書物からの回帰」の{吉永良正の『パンセ』数学的思考を読む。}から、面倒なので引用しています。

ここで重要なのは、高名な物理学者が人の精神や心は、すべて化学物質の反応だから人が死ねば何も残らないと言い切っております。科学が好きで科学を理解できる人にとっては、別段異論は無いと思います。そこまで科学は、物質としての人を分子レベルまで追い詰めてきているのですから、森鴎外が科学の将来性を評価した予見はまさに的中です。

しかし、そうであれば人の精神や心は化学反応であるから極論ですが、たとえば人を殺しても、その殺意は化学反応であることから、裁判でその罪を裁く究極的なエレメントは被告の脳の化学物質となります。ややこしいことに、裁く方も裁判官の心証で裁いているわけですから、裁判官の脳で起きた化学反応で裁いていることになります。

これをどんな風に理解すればよいのだろう?心や精神が単なる化学反応と言い切っていいのだろうか?もし、単なる化学反応だけではなく、違った要素が隠されていると仮定すると、今度は人の心や精神が、それでも人の死と同時にまったく消えて、魂となって残ることはないと断定できるのだろうか?

もし、それでもそうだというのであれば、人は何故、己以外の人が死んだとき埋葬して死者を弔うのだろうか?それは言葉は悪いが、生きている者の単なる自己満足なのだろうか?また、恋愛感情も含めて色々な人の想いが化学反応であるのが事実ならば、人と人との関係は物質対物質の関係であるから物理的には、空間という隔たりがあるのに反応しあうということが起きているという事実を捉えると、情報伝達を返して化学反応が起きているということになる。

人と人との情報は、言語であり、映像であり、音響であり、触覚でもある。人は、情報を駆使して化学反応を高めようとしている。しかし、送信して飛び交った情報は、主観的世界の本人が死ねば、受信できないし、送信もできない。その飛び交った情報ストレージは、一体どうなるのか?本になり、レコードになるものもある。しかし、多くの人々が発した情報は消えてなくなる。そして、すべての発信元の魂は無くなるのか?そうなると、少し、不公平であるが歴史的に残された情報ストレージだけが『魂』モドキということになる。

by 大藪光政

精神について Ver.2

mytecs2007-10-28

精神について考えてみると、まず「健全なる精神は、健全なる身体に宿る」と言うのをすぐに、思い浮かべます。これは、小学校の頃から学校の道徳教育で教わったものです。

しかし、これは昨今、どうも疑わしいと思わざるを得ません。健全なる身体とは、健全なる肉体のことですが、それはスポーツをすることで得られると教えられてきました。ですからスポーツマンは皆、健全なる精神が宿っていることになります。

しかし、社会の一面ニュースでは、ボクシング、相撲、野球、サッカー、ラグビー等のスポーツマンが、品格を問われるような問題を起こした不届きな精神を持った連中でごった返しています。

ところが一方、小説家の遠藤周作氏は生涯、闘病生活において不健康な体で、「沈黙」、「深い河」といった名作を残しています。彼の心はどこまでも純粋に「神」を探究しています。ですから、格言は鵜呑みにはできません。

さて、どうも「心」、「精神」、「魂」の区別がつきにくいですから、ここで広辞苑を拡げて見てみましょう。まず「心」には、(1)人間の精神作用のもとになるもの、またその作用。(2)知識、感情、意志の総体とあります。

それに対して「精神」は、(1)心、魂。(2)知性的、理性的な、能動的・目的意識的な心の働き。根気。気力。(3)物事の根本的な意義。理念。(4)形而上学において想定されている非物質的な実体。と幅広い解釈があるようです。

最後に、「魂」は、(1)動物の肉体に宿って心の働きをつかさどるもの。(2)精神、気力、思慮分別。(3)素質、天分。と説明されています。

こうして見ますと、やはり三つとも非常に曖昧な言葉であることにあらためて気付きます。
たとえば、「心」の説明が人間の精神作用のもとになるものとすれば、その「精神作用」の「精神」は「心」と置き換えられますから、「心」とは、「人間の心の作用のもとになるもの?」となってしまいます。可笑しいでしょう。

広辞苑の編集者は真面目に編集したのかしらん?それで、お遊びはそれくらいにして「精神」という言葉についてもっと考えて見ましょう。言葉は抽象的なものですから、具体的な活用を通してみた方がいいかもしれません。

たとえば、精神病とは言いますが、心病、魂病などとは普通言いませんね。しかし、心の病とか病んだ魂とは言うことがあります。でも、ニュアンス的にはそれぞれ随分違うものです。

精神病は、精神異常という言葉がすぐに連想されます。心の異常、これも言われますね。しかし、魂の異常は聞くことが少ないでしょう。

次に「普遍の精神」、「普遍の心」、「普遍の魂」・・・さてどちらがぴったりした感じがするでしょう。そして、「いやしい精神」、「いやしい心」、「いやしい魂」ではどうでしょうか?

続いて「悲しい精神」、「悲しい心」、「悲しい魂」では?反語として「うれしい精神」、「うれしい心」、「うれしい魂」ではどうでしょうか?こうして見ますと、「心」の場合は、パトス(感情)の言葉との合成がしっくりくるのがわかります。

さらに進めて、「知的な精神」、「知的な心」、「知的な魂」と書いた時、どうも「精神」には知的な目的意識を持った働きといった意味での活用が自然のような気がします。ですから、精神病は知的な目的意識を持った働きが破壊された時に起こる病気を指すのではないでしょうか?

現代人は、精神病というやっかいな病気を患う可能性があります。その原因は、ストレスからくるものが殆どでしょう。そして、ストレスは人によって様々です。

特に知的な仕事をされる方、或いは仕事でのプレッシャーを持っている方は要注意でしょう。仕事での行き詰まり、仕事での失敗・・・それに伴う責任の重さが重ければ重いほど危険です。

現代は、ニーチェの「神は死んだ」といった時代であることにも起因しているかもしれません。「神」の存在しない、閉塞感が人を孤独に落とし込むのです。

生きる上で、不可抗力の数々の現実に対してどのように自身の精神を誘導してあげればよいのか?それが問題なのでしょう。

「神」に頼らず、「自己精神」で、理不尽な事象に立ち向かうには、どうすればよいのか?それは、やはり「哲学」、すなわち「考える」しか道はないのでしょうか?この「考える」行為に必要な知性を磨くことが唯一の救いなのでしょうか?

「信ずる」から「考える」への変換によって、道は拓けるのでしょうか?

話がすっかりそれてしまいましたが、小林秀雄は精神とは記憶の総称といっています。つまり脳がタクトを振って現実に対して切実な記憶だけを呼び起こさせる。但し脳と精神は並行していない。そして実は人間の脳の中には経験した記憶がちゃんと残っている。失語症といった病気はそうした言葉を呼び起こす機能が失われると起きるのだという。これがベルグソンを読んだ小林の話です。

ここで人は、「今まで経験してきた記憶と言うものがちゃんと残っているといっても、思い出せないではないか?それが、あなたの云う切実な現実問題に直面した時にも!」と云われるでしょう。そこのところは、恐らく推測ですが潜在的記憶なので、その記憶をいちいち細かくは思い出せませんが、たとえば人に騙されかけたときに、直覚が働いて、もしやと思い、おかしいと判断するにいたることがあるはずです。潜在的記憶が要約されて閃くことが、おそらく直覚というものでしょう。人間の脳は莫大な記憶を要約して行動判断の重要なヒントを導き出す能力を有しているのです。それも日頃の研鑽がなければ駄目でしょうけど。

精神と云う言葉の意味を考える時、こうして物質としての脳そのものと、こころと魂までもが絡んできて、やはり混沌としてきます。しかし、直覚で判断しますと、精神は人間の考える活動の狭義の意味として捉えられると思うのです。そして精神活動にパトスが入り混じったのがこころなのでしょう。

しかし、パトスはどうして生成されるのか?と問われると困ってしまいますね。パトスが生まれつきなのか?それとも後天的なのか?といった議論も出てきますから。そしておまけに、では心の中での本能の立場はどうなるの?と言われるともっと困ります。本能は生まれ持った心に作用させる力がありますからね。

本能はある意味で、動物としての遺伝子によるプログラムではないかと思います。それはちょうどパソコンがOSで動くように最初から仕組まれているのに似ていますね。そして人類は学習することで知識を獲得し、精神を高めその精神作用と本能がうまく絡み合いパトスが育ってゆく・・・そんなプロセスみたいな気がします。ですから、精神や心にも、そのOSは密接な関係があると思います。そして育っていく心や魂は・・・ある意味で、アプリケーションソフトのようにひとつひとつの個としてこの世に存在することになるのでしょう。

そして、そのアプリケーションは、求められればいつでもよみがえることのできる不滅のものとして存在するのです。それは、使う人がいる限りです。言い換えれば、あなたがこころに想う人は、あなたの心にいつでも再現できるのです。それがその再現こそが魂というものでしょう。

随分、支離滅裂なところまで来ましたが、物質を分析するような科学的な扱いで、心や精神、そして魂などの言葉の意味を捉えようとしても意味がありません。そしてつかんでもすぐに、するりと逃げてしまい辻褄すら合わなくなります。でも考えずにはおられません。実に変な性分に生まれてきたものです。


by 大藪光政

心について・・・ver4

mytecs2007-08-27

前回、心と精神と魂について述べましたが、やはり「精神」や「魂」という言葉よりも、「心」の方が圧倒的に書物でも、会話でも使われています。

それは、直覚な見立てですが、どうも「精神」というとなんだかシステム的なものが入っているみたいですし、「魂」といえば霊的なイメージが拭えません。だから「心」が圧倒的に多いのでしょう。共感している池田さんの著書も「心」の言葉が圧倒的に多いようです。


それで、心についてここで考えを進めてみようと思います。それで、たまたま偶然にも、岩波書店出版(2006年7月26日)で、哲学者の沢田允茂(さわだのぶしげ)さんの『九十歳の省察』を手にしましたが、この目次で最初の省察に「心」を取り上げておられます。哲学的断想とのサブタイトルも付いていましたので、「心」を最初に持ってこられたのは当然のことでしょう。

目次項目は、「心とは」について六つの省察が書かれています。それは、「二つの心-人間と動物の間」、「心と身体-心は社会の代表である」、「脳と心-身体と社会への責任者」、「『私』はどこに在るのか」、「広がる私」、「『分かれる』と『別れる』」の六つの省察で構成されています。


「二つの心-人間と動物の間」については哲学をやる人は皆、問いかける内容でデカルトでいう『われ思うゆえにわれあり』のことや、汎心論についてと問いかけもあります。

そして、人間が持つ『心』は言語を持つゆえ、他動物とは違った『心』を所有していると指摘しています。それは個人としての世界を維持するだけでなく、社会としての世界を持とうとしているところに大きな違いがあると言っています。すなわち、『人間は社会的動物』ということでしょう。

わずかな反論として、動物だって社会的な行動を取っていますが、例えば狼にしても、サルの群れにしても、それなりのコミュニケーションで共同生活を立派に営んでいます。ですから、人間だけが社会的動物だというのは、少し奢りかもしれません。

私論ですが、他の動物にも危険を知らせるとか、仲間を呼び寄せるとかいった信号的言語があるみたいですが、人間には会話言語と活字による言語を備えており『心の発育』では人間の心の方がダントツに広がっています。ただし、それを所有した人類が他の動物よりもすぐれているということとは別です。


沢田允茂さんは、「広がる私」のところで、「内的な私」と「外的な私」という二つの私を取り上げています。それは、作家を例に挙げますと、小説家の私生活を含めた内的心は、一般的に窺い知ることはできません。しかし、作品の中にあるものは作家の「広がった部分の最大」のものに違いないといっています。

そして作品はやがて作家から相対的に独立し、逆に作品が作家の「私」につけ加わり、作品は原則としてはそれらが書かれた時を超えて永久に世に残るという有利な特徴を持っている。といっております。

これは、なるほどと思われることが多々あります。たとえば、夏目漱石は日本ではあまりにも高名で、日本文学で、彼の社会的地位は、かなりのものです。そうしますと、つい漱石を神格化して偉人であったと多くの人は想像します。しかし、江藤淳さんのお話では、なんと!漱石は俗人と同じくけちな人間だったのです。

それは、朝日新聞社に入社して報酬が多くなり、新聞社の編集長でしたか?脱税の相談(合法的か?非合法的か?は不明ですが)を持ちかけたそうですが、一喝して叱咤されて漱石が平謝りした手紙が残っているそうです。漱石も人の子だったのです。

そうしてみますと、作品と漱石の私生活での二つの心はすでに、作品が出来上がってからは作品だけが一人歩きし、立派な文学として様々な読者との心の対話を通して新しい心の構築が始まるようです。


沢田さんは心について、最後の「分かれる」と「別れる」の違いについて述べられており、これは「分かれる」は主に、道が分かれる、枝が分かれるといったように物体が分かれることを指して使われる。ところが「別れる」の方は、友人と別れる、妻と別れるといったように、この場合はおもに人が別れることを指します。

それで、沢田さんがここで言いたかったことは、空間的に分かれるのではなく、見ただけではわからない「心が別れる」ことについて注目されています。そして、結びとして、身体は分かれても、心は別れないことは、人々の心をひとつに結びつけることであり、世界平和をつくりあげる土台となるに違いないと記しています。

このように、沢田さん書物からはヒューマニズムが働いています。しかし、心とは何か?の追求については、残念ながらどこかへいっています。 心は、脳という物質が活動することで、記憶や判断、そして連想、想像、空想と限りない展開をしてゆきます。

そして、自身の存在はもちろん、心の存在についても想いを馳せていきます。そして、手法(文筆活動、演説、会話、講演etc)で、他の人の心を動かしたり、融和させたり、侵蝕したりしていきます。

コンピュータでたとえますと、脳という物質はハードウェア的存在で、メモリーがあり、CPUがあり、コントローラがあってプログラムの指示を待っているわけですが、そのプログラムの動きは、生命体にとって最優先されるのが「生命の維持」でしょう。しかし、人間という動物は「自殺」ができる動物なのでやっかいなのです。


たまに、他の動物たとえばイルカや鯨の集団が集団自殺をしたといったニュースが流れますが、科学的には別な要因(寄生虫などによる脳障害)があるそうです。とくに個体として自殺をするのは人だけです。そこで、その要因は人間特有の心の働きがあるからだと考えられます。それは他の動物とは違った差異なのですが一体何なのでしょうか?

また、人は笑いますが、他の動物ではどうでしょうか?悲しい泣き声を発するのは、自分の犬からでも知っていますが、人間以外に笑う動物がいるのでしょうか?この答えは、霊長類は笑うとの見解があり、実際チンパンジーは人間と一緒で、生まれたときから笑うという表情をもっているようです。

すると、「自殺」のみが人間特有の心の働きのひとつということになります。自殺は、生命維持という大前提を真っ向から不定する行為です。生命を絶つという行為をさせる心とは、すでに己の身体を消去させるという意味からすると、物質としての脳とは対立した存在に心はなっています。

それは裏を返せば、心の錯乱かもしれません。すなわち「物質としての脳」を無視した心の一人歩きということでしょうか?

すると、人の心は「物質としての脳」を無視するような行為ができるところまで、進化してしまったということなのでしょうか?それは、社会的動物としてのかなり高度な展開をおこなう上で是非とも必要な進化だったのでしょうか?


物質としての脳を素地として様々な出来事をメモリーして、生命維持に必要な情報を瞬時に取り出す能力を人は勝ち得てきましたが、それ以上に生命維持以外の自由な思索も発達させてついには、内なる私から外への私として心は、時空を超えた移動を求めているのではないでしょうか?それは、人間の本能から来るものなのでしょうか?それとも、自然が求めた究極の姿なのでしょうか?


by 大藪光政

心と精神と魂について・・・Ver7

mytecs2007-07-01

 
( ※ ひとつのテーマについてバージョンアップ形式で書き上げて行きます。)

心と精神と魂について論じられることがありますが、意外と私自身わかっていないのにあまりその違いを考えたことがありません。

これは、一般の人に対して質問しても答えを得ることは難しいようです。たとえば、「精神論」とか精神主義という言葉はあっても「心論」とか、「心主義」とは言いませんし、聞いたことがありません。しかし、「汎心論」といったように頭が付けばそうした用語は存在しているようです。

では、「魂論」とか「魂主義」はどうでしょうか?これは、「心」と同じのようですね。
(Googleでの検索で一応確認をして見ました。)

そうしますと、「心」と「魂」は同義語なのか?そして「精神」とは何を指すのか?
といったことを考えてみたいですね。

昭和天皇が「それが私の心だ・・・」と言われたのはかなり有名な話ですね。これを「それが私の魂だ・・・」と置き換えますとかなりニュアンスが変わってきます。私が感じるニュアンスは、前者の場合、天皇の気持ちといった理解の仕方ですが、後者は気持ちというよりも気力が入った感じがします。すると心に気合が入ったものが「魂」なのでしょうか? では次に「それが私の精神だ・・・」といった場合は、知的理念が入った感じがします。

小林秀雄さんは、大学生を相手に講演されたとき、確か精神は記憶であると言われていましたが、その意味は肉体に対しての言い方、すなわち「脳」も肉体の一部ですが、精神は魂や心と同じで非物質であるわけです。その非物質である「心」と「魂」と「精神」をそれぞれいろんな場面で使い分けをしているのですね。

では、これらはそれぞれ別々な非物質でしょうか?

大和心と大和魂といった言葉を考えたとき、まず「大和魂」は、私には戦前、戦中からの軍国主義を思わせるところがあります。しかし、この大和心も大和魂も実は女性的なセンスの意味合いを持つようです。詳しくは平安時代からの言葉の流れを学ばないと本質はつかめないようです。

心も魂も小林秀雄の云うベルグソンが書いた『物質と記憶』を読めば、どこまでも物質と非物質は並行していないと結論付けています。けっして心や魂は物質からの反映ではないと言い切っています。科学者からしてみれば、脳細胞にある記憶から反映されたものが心や魂であると考えるのが常套ですが、どうもそうではないということらしいです。小林秀雄は、『反映』という言葉そのものが曖昧であると言い切っています。

ここで整理してみますと、心も魂も状況による言葉の使い分けはありますが、この非物質は同義語として考えてよいのではないでしょうか?もう一度言葉を考えて見ますと、体力に対して精神力といった場合、心力という言葉はどうやら辞書にありますが魂力はどうもないようです。ですから、精神と心はやはり体とは密接な関係があるようです。そして人が『魂』と言ったときは、どうも体から離脱できる、すなわち物質にはまったく囚われない存在と言った方が腑に落ちそうです。

ノーベル文学賞作家の大江健三郎の講演テープをよく聴いていると、精神と心と魂の使い分けがあいまいな事に気付き笑ってしまいますが、やはり小林秀雄や、池田晶子にしても、『魂』という言葉を追求するのは難解と認めていますので『魂』は鬼門のような言葉です。言葉は、事象のすべての代名詞ですから、やはり『意味』としての定義付けは、そうやすやすと出来るものではないということでしょうか?

一番問題になるのは存在で、肉体と精神や心、魂はかならずしも同一人間において並行していない存在であり、かつ別物としての存在であるということが本当ならば、心や魂が肉体(脳)とは違ったところにあるといわなければなりません。そうなるとどこに存在しているのか?といった問いが出てきます。

小林秀雄は、存在と云うと人はすぐに空間的な場所を考えるが、心や魂の存在にはそうした考えは不適切であるといっています。ある名ピアニストが、「曲を弾くときは脳が覚えているのではなく、指が覚えてくれているのだ!」といったようなことを聞いたことがあります。それはある意味で、覚えてくれているのは場所ではないということを示しているようです。この考えは非常に面白いと思いませんか?

私も直感的にそうだなと思いました。それはシューベルトソナタ18番を聞いたときに、心も魂も異次元の世界にあるという感覚に見舞われた経験があります。

私は、サイエンスが大好きで今日まで来ていますが、確かにサイエンスはすべて分析であり、方法論であり、実証主義でもあります。そして常にその対象は物質の仕組みやその運動法則を解き明かすことでした。そして今日の科学技術の成果が人工物質生成への応用なのです。

しかし、そのサイエンスには限界があります。物質の存在理由や物質が最終何であるかは解き得ません。またサイエンスでは心や魂についても解き明かすことは不可能です。それは、計算はおろか機械で計測すらできないからでしょう。計測できない限り、科学では実証は出来ないのです。

ここにサイエンスの限界があるのですが、人の哲学はいつの時代も執拗にこれを追求しています。自然が生み出した人間に何故、心や魂が存在するのか?これは大きな謎でしょう。しかし、自然が生み出した生命は人だけに限りません。

身近では、犬や猫もそうです。彼らにも、心も魂もあるかと思います。但し、人とのその違いはありますが、複雑ではなく立派なものを持っています。そして鳥もそうでしょう。

最近、お金欲しさにわが子に多額の保険金を掛けて平気で殺してしまう親がいますが、この心は畜生以下です。ですから心や魂は決して人間だけのものではなく、生物全体に存在するものでしょう。すると、すべての自然に魂が宿るということになりますと、これはアニミズム的な世界があるということになります。

以前新聞で、虫の心を研究している記事がありました。学術的に虫にも心があるとの見解で研究が熱心に行われているのには、流石の私も驚きでした。昔から「一寸の虫にも五分の魂」といわれていますが本当なのかもしれません。

そうしてみると、昔の人は本当に考えの深い人がいたのですね。ところでそうした虫や動物、そして人の心と魂は一体どこに存在しているのでしょうか?ここで空間的存在を考えてはいけないようですから、私の想像を巡らせますと死後に遊離した心と魂は異次元の世界で、実はその非物質が物質の元となって再構築されているのかもしれません。

連鎖的に考えますと、石にも心や魂があるような気もしてきますね。結論から云うとこの宇宙に存在するすべての物質は非物質から生成されているということです。しかし、物質と非物質は並行していないのですからどうして非物質から物質に変換できるのか?といった疑問も出てきます。


※ 補足しますが、物資が非物質でできているという考えは、物質をとことん分解して行きますと・・・分子、原子、電子、陽子、中性子、中間子、素粒子といった究極の素子を科学は追及していきますが、その究極に行き着かないのが現状です。そもそも究極の物質なんてあるのか?先程の素粒子レベルでも、実際直接的に人間の目では見えない物質なのです。一般的に目に見えるものが物質なのであって、目に見えないものが心とか精神だとか魂だとかいっているわけで、物質を追求すると、人間の目には見えない世界でできていることに気付きます。


しかし、科学的には間接的にそれらを定量的、定性的に物質の素であることを次々に発見して行っていますが、直覚を働かせますと、どうも非物質が物質を構成している気がしてならないのです。それは、すべての物質には心があると。汎心論的考えが昔からありましたが、『心』や『魂』は非物質ではありますが、それが物質に宿っているという考えは、とりもなおさず、究極の物質素子は非物質である『心』や『魂』のようなもので形成されていると思っても不思議でないと思います。そうすれば、アニミズムのようなものに対しても理解が得られます。


これはあくまで私のロマン的な想像ですから・・・念のため。


そしてこのことを書くにつれ、なんだか物質と心や魂はどうもやっぱり次元の違いがあるみたいな気になってきました。精神と物質が並行していないと仮定したとき、人はその心と魂の行方を探し求めるものですから・・・わからなくなるのでしょう。小学生の頃・・・星をじっと見ていると一体自分が何者であるのかがわからなくなったことがあります。それは心と魂が自由に宇宙を見渡した所為でしょう。それは或る意味で物質と非物質がともに存在する宇宙への回帰かもしれませんね。


そして最後にひとつわからない謎があります。
それは何故、自然によって出現された人間が自身の存在を自問するのでしょうか?言い換えますと自然が自然の存在を自問していることになりますね。

by 大藪光政